奈良市の市街地には2つの中心駅がある。
一つは近鉄奈良駅、もう一つはJR奈良駅である。

今回はこのJR奈良駅から桜井線、愛称万葉まほろば線に1駅だけ乗って、「京終駅」下車し、その付近からウオッチングをしてみることにする。
京終駅の駅舎は白い木造平屋寄棟の懐かしい国鉄の時代を偲ばせる駅舎である。
ポツンと建っていて、駅前も広い。
雰囲気が大いにある。

「京終」というそのまんまの住所地は無い。
「南京終町」「北京終町」それに「京終地方東側町」「京終地方西側町」という町名がある。
以前は良く中国の都市のように、ナンキン、ペキンと読まれたりしたそうである。

先ずは京終の地名の由来を探ってみることにする。
京終駅の少し東側を古代からの街道「上ツ道」が通っている。
この道は、西側にある中ツ道、もっと西にある下ツ道と合わせて平城京から飛鳥へ行く主要街道であった。

この上ツ道を少し飛鳥の方へ歩いてみる。
春日山から下りてくる道との交差点に出る。
東側には春日自動車教習所がある。
そして大きな入母屋造りの個人の邸宅がある。
その交差点に春日燈籠が2基立っている。
この場所が京終である。

この場所の南には能登川、岩井川と云う川が流れていて、合流して佐保川に流れ込む。
平城京の京域の果てで、ここから域外へ出る場所である。
また鎌倉時代以降には奈良の中心が平城京から東の奈良町中心に移ったので、その町の外れを示しているところである。

春日燈籠の所から、上ツ道を北上してみることにする。

さすがは旧街道である。
虫籠窓を備えた切妻の町屋が幾つか見られる。

道の脇に朱色の鳥居と玉垣で囲まれた大きな木がある。
枝は掃われている。
楠か榎だと思うが、お祀りしていると云うのも通りには似つかわしい。

少しい大きな道を渡ると右手に窓のない旧家的建物がある。
「ならまち振興館」という。
この時は休業だったので、中身は良くは分からない。

その先の左手に「高林寺」と云う寺がある。
寺門の脇に「高坊旧跡、中将姫修道霊場、豊成卿古墳之地」との石柱が建っている。
ここは藤原豊成公の邸宅だったと云われている。

更に先に進む。
右手に「ならまち格子の家」と云うのがある。
この付近からは、旧町屋が増えてくる。
そして綺麗に修復された状態で並んでいる。
観光を意識した街づくりである。
観光客もちらほらと出ている。

ならまち格子の家の斜め前に重要文化財である藤岡家住宅がある。
江戸後期の建築である。
玄関の両側にはバッタリ床几を備え、これを道路側に倒して、雨戸のような木の板を外すと店舗となる構造である。
この店は生薬や鬢付け油、お歯黒材料、その後は紙など商売をして栄えていたと説明されている。
当時の商家はこうであったという代表の建物である。

更に進む。
左手に「砂糖傳」という今でも商売をしている商家を見る。
安政元年、江戸末期の創業である。
大和茶を大坂に届け、帰りの舟で沖縄黒糖や四国の和三盆を運び商売したそうである。
現在でも米を麦芽で糖化した「米飴」を製造販売しているとのことである。

更に進む。
交差点の右手に、土塀に囲まれた大きなエリアがある。
赤い鳥居も見えている。
「御霊神社」という。
お参りして行こう。

この神社は桓武天皇の勅願によるものである。
祭神は皇族や貴族関係の人々である。
奈良時代の末から平安時代の初期にかけて、相次いだ政変の中で、冤罪により非業の死を遂げた人たちの怒りを鎮めるために祀られたものである。
その怒りとは天変地異や、飢饉、疫病の流行を引き起こすと恐れられたのがその理由である。
陰謀により京都長岡で非業の死を遂げた桓武天皇の異母弟早良親王なども祀られている。

お参りを済まし、次に向かう。
今度は神社前の通りを東に行ってみる。
金躰寺、法徳寺の前を通過し、十輪院前に至る。
国宝の本堂がある寺であるが、残念ながら今日は拝観できない日である。
重文の南門を見て、更に東に進む。

間もなく国道に出る。
これ以上は東へ行きたくないので、北へ進む。
右手の道路向こうに福地院がある。
重要文化財の地蔵菩薩を祀る寺で、その本堂も大仏様の建築で重文である。
創建は聖武天皇の勅願によるもので、奈良時代と云われる。

今度は西に進む。
酒蔵がある。
南都諸白「春鹿(はるしか)」の醸造元であるIN清兵衛商店である。
超辛口の酒が有名で、奈良に行ったときには手に入れる。
店構えは虫籠窓を供えた旧町屋商家の様相である。
また、ここの書院も重要文化財となっている。
見学する時間が無いのでパスとする。

御霊神社の2本向こうの筋まで戻り、南へ歩く。
右手に徳融寺と云う寺がある。
奥に中将姫(ちゅうじょうひめ)と豊成(ふじわらのとよなり)公の宝篋印塔(ほうきょういんとう=墓)が並んでいる。
また少し行った左手には中将姫の誕生寺と云うのがある。
この寺には入れないので、外から眺めるだけではある。

この奈良町には、中将姫の関わりが多い。
中将姫のことを少し調べてみる。

中将姫は藤原鎌足の曾孫である藤原豊成とその妻の紫の前が長谷寺の観音に祈願し、授かった姫である。
しかし母親は姫が5歳の時に早世し、姫が7歳の時に豊成は橘諸房の娘である照夜の前を後妻とした。

中将姫は美貌と才能に恵まれていて、9歳の時には孝謙天皇に召し出され、百官の前で琴を演奏し、賞賛を受けたという。
しかし継母である照夜の前に憎まれるようになり、盗みの疑いをかけられての折檻などの虐待を受けるようになった。

13歳の時には三位中将の位を持つ内侍となり、「中将姫」と云われるようになった。
そして14歳の時、豊成が諸国巡視の旅に出かけると、照夜の前は今度は家臣に中将姫の殺害を命じた。
しかし中将姫は命乞いをせず、極楽浄土へ召されることを祈り読経を続けたと云う。
それを見て家臣は殺めることが出来ず、宇陀の雲雀山の青蓮寺へと隠した。
翌年、帰ってきた豊成が姫を見つけ連れ戻したが、姫は既に1000巻の写経を行っていたのであった。

16歳の時、淳仁天皇より後宮へ入るように望まれるが、これを辞し、二上山の山麓の当麻寺へ入り、尼となった。
その後、長谷観音のお告げにより、当麻曼荼羅を織り上げたと云われる。

そして29歳で入滅し、阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、生きたまま西方極楽浄土へ向かったとされている。

余談であるが、婦人薬の「中将湯」と云うのをご存じであろうか?
薬業のバスクリンでおなじみの「TMR」の製品で100年以上もの販売実績を持つ。
このTMRの創業者の津村重舎は大和国宇陀郡の出身で、中将姫が隠された雲雀山青蓮寺の檀家でもある。
そして母の実家の藤村家には逃亡中の中将姫をかくまった御礼に製法を教えられた薬「中将湯」が代々伝えられていたと云う。
中将姫が婦人病に悩まされたとの伝説があり、その秘薬を伝えていたのであった。
これを事業化したのが現在の「中将湯」である。

この中将姫物語は、謡曲などに取り入れられ、江戸時代になると、芝居や浄瑠璃でもてはやされたと云われる。
中将姫が継母から虐待を受けても少しも怨まず、ただ一筋に仏の道に精進し、ついに極楽浄土を目の当たりに感得したという、そのような話である。
この物語、浄土信仰を勢いづけたとも云われている。

中将姫はこれくらいにして、元の上ツ道に戻る。
北へ行く。
住吉神社の前を通り、道祖神の前を通り、率川(いさがわ)の橋を渡り猿沢の池の畔へと出た。
興福寺の五重塔を眺め、一息となった。

ここで京終(きょうばて)からの上ツ道を北上してのウオッチングは終了である。

途中の奈良町は奈良の歴史を物語っているとも思えるが、やはり奈良と云えば元興寺はともかく、東大寺や興福寺それに春日神社が未だに大きな寺領を誇っていて、大勢力であり続けている。
彼らを抜きにしては語れないような気がする奈良である。

〔完〕