大阪北河内地域にある交野市にJR学研都市線(片町線)の「河内磐船(かわちいわふね)駅」がある。
学研都市線はこの駅の直ぐ南で京阪電車の私市線と交差していて、少し南東へ歩くと京阪駅が「河内森(かわちもり)駅」がある。
逆に北西方向へ歩くと、少し遠いが京阪の「交野(かたの)市駅」に行くことができる。

このようにこの地区には「か」の付く駅が3つ集まっている。
今回はこの3駅を訪ねてみることにする。

先ずはJR線の河内磐船駅で下車する。
この駅の北部には、円形ドームの大きな体育館とグラウンド、そして府立高校、ちょっと離れて私学のマンモス中高があるが、今回はそちらには行かずに、南東にある河内森駅に向かう。

暑い夏であるので出来るだけ歩くことは控えたい。
河内森駅から一駅だけであるが電車に乗り、交野市駅に到着し下車した。

駅の裏側(東側)から出る。
そこの住所地は「交野市」「私部(きさべ)」という変わった名称である。

交野と云うところは平安時代から宮廷の貴族がたちが狩に行く野原、すなわち「狩野」として知られている。
狩野が訛って「かたの」になったと云われている。

また「私部」と云う地名は妃のために働く部署のことを云い、この名は古代から、ここに皇室の妃のための米作田があったことから名付けられている。

このようにこの辺り、生駒山の西麓は古代から貴族のために役に立って来た所である。

駅の近くを見てみよう。
駅裏から旧道を東へ向かう。
かつての私部の中心街である。メインの通りであるのに道は狭い。

暫く歩くと道の両側に役所のゾーンが見られるようになる。
交野市役所などである。

更に進む。右手奥に大屋根の建物が見える。
江戸時代の代官屋敷と云われる北田家住宅、重要文化財である。
路地を歩いて近づいてみる。
1区画に渡る長い長屋門がある。見事である。
本屋はとてつもなく大きい。
また横の通りはこれも風情ある土塀が設けられている。

北田氏は南北朝時代に南朝方の武将・北畠顕家(きたばたけあきいえ)に繋がっている。
足利の時代になって民間に下り、北畠の姓をはばかって「畠」の「白」を取り、北田としたものである。
戦国時代は私部城主安見氏の重臣となったがその後、農業に専念したと云われる。

江戸時代になって領主畠山氏の下で庄屋、そして代官職を務めた家系である。

北田家の横の道を東へ歩く。
道はカーブしていて途中市役所前からの道と交差するが、それを渡り更に進む。
暫く行くと、長い土塀が右手にある。
片野桜の酒銘で知られる「Y酒造」の酒蔵が土塀の中にある。
先日もデパートの酒売り場で社長さんとお会いしたところである。
酒蔵訪問と行きたいところであるが今回はパスする。

引き返す方向に細い道を辿る。

暫く行くと真宗無量光寺、浄土宗想善寺、その裏手に禅宗光通寺の3寺が並んでいる。
3寺ともに本願寺、南朝天皇の勅願寺、室町将軍の創建によるなど由緒ある寺であるが、大坂の陣で破壊され再建されたと云う。

そしてこの裏手が私部城跡である。
これらの寺の辺りまで私部城があったと云われている。

想善寺の横の道を通って城跡へと向かう。
少しの広場に出る。

私部城は本郭、二郭、三郭、出郭を備えた畠山氏の重臣安見氏の城であった。
安見氏は畠山を無視して河内守護として振る舞っていたと云われる。
大坂の石山本願寺の戦いで城主が戦死してから、大和の筒井順慶に攻め落され、信長の指示で廃城とされたと云われている。

二郭の跡が広いままの状態で残されている。
本郭や三郭は畑や住宅地となっている。
出郭は先程の光通寺が再々建された場所である。
また土塁や堀の跡も所々に残されていて、当時を偲ぶことができる。

城跡の北側には広い自動車道が通っている。
この道に沿って歩き、元の交野市駅に戻ることにする。

駅の南側には大型のショッピングセンターがある。
その先には川が流れていて、その川の名前は「天の川」、そこに架かっている橋が「逢合橋(あいあいばし)」である。
七夕伝説が生きている交野の街の一角でもある。

〔かノ駅 完〕