「え」の酒と云えば、酒処新潟の「越後○○」であろう…。
該当する酒を探し、「越後桜 大吟醸」を見つけたので手に入れた。
今までこの酒銘は見たことが無かったが、一挙に出蔵したものであろうか?、他のスーパーでも販売されていた。

度数15~16、日本酒度+2.0、酸度1.3で、普通の数値である。
大吟醸であるので精米歩合は50%と大幅に酒米である山田錦他を削っている。
但し、純米酒ではない。
醸造用アルコールで調整している酒である。

冷蔵庫で冷やしたものを早速頂いてみる。
抵抗感がない大吟醸である。
飲み易いこと、この上ないが、どちらかと云うと物足らない気がする。
喉越しもさわやかで、水のように呑める。
いわゆるワイン感覚で飲める酒というのであろうか。

さてこの越後桜の酒蔵はかつての「越の日本桜酒造」、現在は酒銘と同じ「EGZ酒造」と云う。
新潟県の阿賀野市と云うところにある酒蔵である。
明治23年の創業で、酒造りに大切な水は阿賀野川・五頭山系の伏流水を使っている。

この酒蔵は、いろは酒「つ」の酒で飲んだ埼玉の「通の辛口・金紋朝日」のKY本家酒造を盟主とする世界鷹グループの傘下にある酒蔵である。
何とこのグループ、日本酒全体では出荷量6位ぐらいであるが、吟醸酒の部では全国トップとのことである。

誤解があってはいけないが、吟醸酒と云っても純米酒ばかりではない。
ベースに吟醸用に米を過分に削って醸造した純米酒に加えて、醸造用アルコールを適度に混ぜればそれでも吟醸酒として十分通用する。
今回の越後桜大吟醸は、そのようなものであろうかと思われる。
但し、極めて安価なので、それなりに楽しめる重宝な酒ではある。

安価に提供できるには、それなりの努力と秘密があるのは通例である。
この酒蔵、明治時代建造の旧の蔵は新潟地震で打撃を被ってもいるので、先ごろ、10億円を投じて新醸造設備を建設、稼動していると云う。
新たな蔵は白鳥の飛来地と云うことで、「白鳥蔵」と名付け、最新の自動化ラインを構築して、大量生産ができるようにしている。
機械化量産なので、安くできると云うことは頷ける。

さて、EGZ酒造は新潟県の東北部、阿賀野市にある。
新潟には何度も行っているが、この市には行ったことは無い。
行ったことが無い場所なので、ネットの記事を参考に阿賀野市を見てみることにする。
阿賀野市と云えば、白鳥が飛来する瓢湖(ひょうこ)がある水原町(すいばらまち)がこの市の中心である。
このEGZ酒造も水原町にある。

武家の話で恐縮であるが、戦国時代は越後と云えば上杉謙信の領地であった。
謙信の家臣、水原氏がこの地を守る平城「水原城」を築き居城としていた。

1581年、謙信亡き後の上杉に反旗を翻した新発田重家の乱が起った。
その乱で水原満家は当主上杉景勝に味方したが、新発田の居城を攻め、その退却の時に、新発田軍の追撃により討ち死にし、水原城も新発田方に渡ってしまった。

新発田のものとなった水原城は、その後上杉軍の攻勢に頑強に抵抗して容易には落ちなかった。
何度も上杉方は水原城を攻めた。
そしてついに落城させ、上杉景勝は水原城に大関弥七を入れ、水原常陸介親憲と名乗らせ、上杉の属城として復帰させたのであった。
関ヶ原の戦いの前、上杉景勝は会津移封となったので、水原城は廃城となった。
城主水原親憲も会津へ付いて行き、会津藩猪苗代城主に任じられた。

関ヶ原の戦いで親憲は上杉軍として慶長出羽合戦に出陣し最上義光と戦うことなる。
追撃してくる最上勢に痛手を与え、上杉軍の撤退を成功させたと云われる。

また、大坂の陣では鴫野の戦いで鉄砲隊を率いて大いに活躍して、将軍・徳川秀忠から感状を賜ったが、親憲は、
「子供の石合戦ごときのような戦で、感状を賜ることになるとは」と言い放ったと云う。
これは関ヶ原の戦いでは徳川との戦を主導しておきながら、戦で嫡男・景明に感状を貰おうと躍起になっていた執政・直江兼続を皮肉ったものと云われている。

一方廃城となった水原城であるが、長らくそのままの状態であった。
江戸時代中期にこの城跡に代官所が置かれた。
また、その代官所の中に、学問所「温故堂」が置かれ、戊辰戦争後にで廃止されるまで続き、明治になってそこには小学校が開設された。このような経緯を有している。
そして現在は、その代官所跡に、代官所の建物が復元されている。

城跡には代官所の復元が残るだけであるが、近くの瓢湖には白鳥が飛来するので、それと合わせて観光名所となっている。
そのような阿賀野市水原町が、この酒蔵の立地である。

〔えノ酒 完〕