今回は淡路島の南あわじ市の榎列という地域とその周辺をウオッチングしてみることにする。
南あわじ市は最近になって幾つかの町が合併してできた市である。
この辺りは淡路玉ねぎの産地でもあり、旧の三原郡三原町と云った方が馴染みがあるかも知れない。

出発点は勿論のこと、日本の国生みの神社である「自凝島(おのころ)神社」とする。

古事記の記述によると、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)の二神は別天津神たちに、漂っていた大地を完成させることを命じられ、天沼矛(あめのぬほこ)を与えられた。 二神が天上の「天の浮橋」に立って、天沼矛を青海原に突き刺してかき回した。
そして、その矛を引き上げたときに、矛の先から滴り落ちる潮(しお)が凝(こ)り固まって一つの島となった。
これが「おのころ島」と云われ、二神はその島に降りて夫婦の契りを結び、国生みをしたとされている。
この初めに造られたのが淡路島で、次々と大八洲(おおやしま)の国々、即ち日本列島を造ったとされている。

自凝島神社はこの国生み神話がある神社である。
神話の真偽はともかくとして、このように云われるようになったのは、大和朝廷が淡路を屯倉(みやけ:荘園)として直接の支配下においたこと、御食国(みけつくに)と呼んで食料調達の特別な地としたことに由来する。
このようなことから淡路が重要視され、ご当地に国生み神話が起こり、そして一般的になったものと思われる。

能書きはこれくらいにして、ウオッチングを開始する。
まずは自凝島神社。
この神社の場所は間違えることは無い。
それはこの辺りではどこからでも見える大きな朱塗りの鳥居が建っているからである。
高さは22m近くある。
日本三大大鳥居として、京都の平安神宮、広島の厳島神社と列せられるものである。

そして神社の森は神社の分だけ小高い丘になっている。
勿論祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊である。

尚、自凝島は現在は小高い丘になっているが、数千年前の縄文時代には三原平野は入江であったこと、水辺に群生する葦が最近まで島の北部一帯に広がっていたこと、これらを合わせて、自凝島は海の中に浮かぶ小島であったと考えられている。

摂社には八百萬神社、それに天浮橋の石碑、それに服部嵐雪の句碑「梅一輪 一輪ほどのあたたかさ」もある。
早速にお参りし、境内の掃除をしていた神官の手を止めご朱印を頂き、神社を後にした。

直ぐ西にある三原川を渡ると「榎列小学校」がある。
この辺りは「榎列大榎列」のという地域の中心地である。
その少し南に「屯倉神社跡」が玉垣に囲われている。
日本書紀に「仲哀天皇二年、淡路に屯倉を置く」との記述にあたるものと云われている。

更に南に下がる。
「府中八幡神社」という少し大きな神社がある。
この辺りがかつては淡路の国府であったことが推察される神社である。
この場所は「榎列小榎列」と云う。
ここらあたりまでは、かつての「榎列村」であった。

地名が変わる。
かつての「市村」に入る。
かつては市が開かれていたところである。
ここは地名が面白い。
も少し南へ下がると、「市市(いちいち)」と云う地名がある。
現在は南あわじ市になっているので、更に面白くなっている。
表記は「南あわじ市市市〇〇番地」となる。

この少し南は、かつての三原町役場や図書館、NTTなどがあり、三原町の中心地である。

あまり行き過ぎると榎列から離れるので今度は東へ行くことにする。
東は市善光寺という地域である。
淡路は古代から開けたところであるので、多くの寺社がある。

三原川に出る。
この川を渡り返し、川沿いを遡る。
現在の南あわじ市の役所機能の中心部に出る。
ここにはケーブルテレビの本拠地がある。

「さんさんネット」という。
グリーンチャンネルもある農村型ケーブルテレビである。
かつてこの建設に関連したことがあったので、懐かしく思い出したのであった。

市善光寺から今度は東北部に向かう。
八木と云う地域に入る。
暫く行くと淡路国分寺の跡がある。
これを訪ねてみよう。

国分寺跡の入口を入った右手に「史跡淡路国分寺塔跡」と書いた石碑がある。
それによると、「天平の昔に建立された淡路国分寺の今にいたる壮大な塔跡である。中心礎石は、・・・」とあり、塔の礎石が史跡に指定されている。
現在はその上に大日堂が建てられている。

大日堂の隣には鉄筋のお堂が建てられている。
説明板には、「国分寺の本尊は木造の丈六釈迦如来座像である。像の高さは294.8cmで、・・・・。国の重要文化財に指定されている」
となっている。

国分寺跡を後に、同じ八木の住所地の東に向かう。
少し遠くなるが、山の麓に農場をモチーフにした大きなテーマパークがある。
「淡路ファームパーク イングランドの丘」という。
甲子園球場14個分もある広大な農業型公園である。
民間の企業が経営している。
ここまで来たからには、記念に入園してみよう。

園内はグリーンヒルエリアとイングランドエリアに分かれている。
まずはグリーンヒルエリアからである。
ここは植物園・動物園が主体である。
熱帯から寒冷地までの珍しい植物を集めた大温室があり、見てみる。
バナナ、ハイビスカスにいろんな種類の蘭が咲いている。
またコアラ館もあり、コアラを見ることが出来た。
7~8匹もいるようであるが、多くは木の上で寝ている。

次はイングランドエリアである。
ここは遊びのエリアである。
2つのエリアを結ぶトロッコ列車に乗って行って見る。
門を入ったすぐ右手に国生みの館と云うのがある。
淡路島の歴史や観光について展示されていた。
淡路の回船業の有名人、高田屋嘉兵衛などが語られている。
この建物は白いレトロ調の木造で、旧の三原郡役所の建物を移築したとあった。

大きなレストハウスもあって、淡路の名産品や石窯工房も併設されている。
お土産を物色して、元の総入口に戻りイングランドの丘のウオッチングは終了である。

ここで榎列を中心に周辺を振り子状に巡ったことになる。

榎列の自凝島に戻り、最後にその西数百mのところにある「葦原国」という場所に行ってみよう。
葦原国の立て看板には、次のように書かれている。
『古事記、日本書紀によると、「天と地がひらけるはじめは、国土が浮き漂い遊魚が水の上に浮かぶようであった。その中から葦芽(あしかび)のようなものが生じて神となり、国常立尊(くにのとこたちのみこと)ともうしました・・・・・」
このようなことから、葦原国は、海辺に葦が繁っていて、その中に五穀豊穣の沃土があるという、 古代伝承にもとづく日本国の別の呼名とされています。
中の歌碑には「千速(ちはや)振る神代の昔 あしはらを ひらきそめにし 国常(くにとこ)跡」と刻まれています』

この場所は「榎列下幡多」という。
自凝島神社とともに国生み伝承ゆかりの地である。

最後に榎列の地名について考えてみよう。
平安中期に書かれた「和名抄」には「三原郡榎列(江奈美)郷」と表記されている。
鎌倉時代には「榎烈村」となり、江戸時代には「大榎並村、小榎並村」となった。
明治10年になって3村合併で再び「榎列村」が誕生した。
これは明治維新の王政復古が叫ばれたこともあって、村の表記も古代に復帰し、現在までその地名が継続されている。

榎列(えなみ)の語源については諸説あり定まっていないが、古代から一貫して榎の字が使用されていることから、榎の木が沢山植わっていた地域であったのは間違いないであろう…。

〔完〕