「ゐ」の章、今回は京都市上京区の猪熊1、2丁目、蛭子町、小寺町、如水町及びその周辺の街角をウオッチングしてみる。

これらの街々は、京都御所の西の烏丸通りの更に西、堀川通りのその西に隣接する南北の猪熊通りの、一条通りと下立売(しもだちうり)通りとの間にある。
先ずは猪熊通りと下立売通りの交差点から猪熊通りを北上してみる。

少し北上した左手に有職(ゆうそく)料理で有名な萬亀楼(まんかめろう)と云う古代からの伝統を守っている老舗料亭がある。
この場所は蛭子(えびす)町と云う。
この有職料理とは、平安京当時から、朝廷や宮中にて節会などで食べられた雅やかな形式の宮廷料理である。

鎌倉時代には、源頼朝の命によりより庖丁方を務めたり、その後豊臣秀吉の命で、八条ノ宮家、京極ノ宮家、有栖川ノ宮家等に仕えていたと云われている。

料理人は烏帽子、袴、狩衣姿で、俎板の上に置いた食材の魚や鳥には直接手を触れず、箸と包丁にて魚を捌く古式豊かな生間(いかま)流式庖丁を継承していて、当代は29代目だそうである。
尚、店としての創業は江戸享保とのことである。
店構えからして小生のような庶民には縁の無いところである。

老舗料理店を後に、猪熊通りを北上する。

道は直ぐに下長者町通りに突き当たる。
左折して直ぐに右折し、猪熊通りの続きに入って北上して行く。

説明が遅くなったが、この猪熊通りのあたりはあの秀吉が建造した聚楽第(じゅらくだい)本丸の東の端にあたる。
出入り口の門やら武家屋敷やらがあったところである。
聚楽第は秀吉が住んだ後、関白秀次の居城になったが、秀次がある理由で高野山に幽閉された後、秀吉の手によって完膚なきまでに破壊されたので、現在は遺構は何も残っていない。
跡地から出土された金箔瓦とかが、わずかに残っている程度である。
そして建造物の推定場所には、後の時代に建てられた石柱があるだけである。
聚楽第は8年間の短命であったことも、その財力と無駄遣いには驚かされてしまう。

再び猪熊通りに入ると、まずは「南大小門町」という地名になる。
聚楽第東外門であった鐵門(くろがねもん)があったことに由来している。
直ぐ西にある通り「黒門通り」もこの門に由来している。

更に進むと、今回のウオッチングの主題である「猪熊2丁目」へと入って行く。
京都市内としては標準的な住宅街である。
いにしえを伝える京町屋も見られる。

北に進んで行くと、杉本町という町名になる。
杉本町は上長者町通りを挟んで、少し北まである。

その先は猪熊1丁目になる。
左手には蒲鉾商、右手には小学校がある。
良く見ると小学校は校門や校舎が古びているようである。
「ありがとう聚楽小学校」と云う看板も校舎に掲げられている。
聚楽第に関する地名であり雰囲気はあるが、明らかに廃校となっている様子である。

この猪熊通り側は裏門である。
その門には「Kyoto International School」の表示がある。
国際的な学校であろうが良くは分からない。
門は閉ざされて、人の出入りもない。

少し調べるために、反対側へ回ってみた。
こちらには正門である。
門には「京都市上京区社会福祉協議会」の表札看板が掛かっている。
なるほどなるほど、建物を壊さないで役所関係の事業で活用されているのは、嬉しいことである。

この学校跡地から北は「役人町」となる。
どのような役所があったのか?役人が住んでいたのか?良くは分からない。
役人町は中立売通りを跨いでいる。
この通り沿いには聚楽第周辺に屋敷を構える武家を相手に呉服商が絹巻物を裁縫(たて)て売ったことから立売りと云う名前がついている。
この中立売通りを中心として、街のそこここに連子(れんじ)を備えた歴史的な町屋・商家が保存されている。

更に北へ進む。
「飛騨殿町」となる。
蒲生氏郷の屋敷があったところである。
通称飛騨守と云われていたが、それが町名となっている。

続いて、「小寺町」「如水町」が続いている。
ご存じ黒田官兵衛の屋敷があったところである。

官兵衛はまだ無名の頃、播磨の領主であった小寺氏の養子となっていたのでこの姓「小寺」を使っていた。
それが町名となっている。
秀吉の時代になってからは「黒田」と名乗り、秀吉の天下を脅かすような能力があるとの疑いを受けたので家督を子に譲り、さっさと隠居してしまった。
その隠居の号「如水」も町名となっている。

小寺町、如水町合わせて官兵衛の屋敷があったところである。
如水町には、それを示す石柱「黒田如水邸跡」が建てられている。

余談であるが、来年の某公共放送局の大河ドラマはこの黒田官兵衛になることが決まっている。 官兵衛の出身地である姫路市やJR西日本では既に宣伝を始めている。
この京都の官兵衛屋敷跡も少しは観光として扱われるのであろうか?
しかいながら石柱だけでは何ともならないとは思うが…。

続いて「弾正町」。
ここは少々ややこしい。
上杉景勝の官位である「弾正大弼(だんじょうおおひつ)」を由来とする説と、浅野長政の官位である「弾正少弼(しょうひつ)」のどちらかであろうが、確定はしていない様である。

更に北へ進む。
今度は「横神明町」「竪神明町」というと地名が出てくる。
聚楽第本丸にあった神明神社が由来である。
この両神明町の東隣には、「晴明町」がある。
云わずと知れた安倍晴明を祀る占い神社、晴明神社の鎮座地である。

境内の入口には千利休の屋敷跡の石柱も建っている。
現在の晴明神社の地に、千利休の屋敷があったと伝えられている。

神明神社まで来たので、これ以上、北へ行くのは止めて、神社の門前、大通りである堀川通りに出ることにする。
堀川通りに出ると景色は一転する。
一本裏の通りは町屋、民家が並んでいる細い通りであるのに、ここは中層のマンションが並んでいる通りである。
見事な変わり様である。

堀川通りを南へ歩くことにする。
直ぐに一条通りの堀川に橋が架かっている。
有名な「一条戻り橋」である。
この橋の辺りには寒咲きであろう、桜が綺麗に咲いている。

戻り橋には、この橋を渡ると戻ってくることになると云う言伝えがある。
従って戦地に行く兵隊さんはこの橋を渡り、嫁入りの行列はこの橋を避けたと云われる。

戻り橋の説明文によると、

『延喜18年(918年)、文章(もんじょう)博士・三善清行(みよしきよつら)が亡くなった時、父の死を聞いた子の浄蔵が紀州熊野から京都に馳せ帰ってみると、その葬列は丁度この橋の上を通っていた。
浄蔵は柩(ひつぎ)にすがって泣き悲しみ、神仏に熱誠をこめて祈願したところ、不思議にも父清行は一時蘇生して、父子物語を交したという伝説から戻橋と名付けたという。
太平記、剣の巻によれば、その頃、源頼光の四天王の一人であった渡辺綱(わたなべのつな)が深夜この橋の東詰で容貌美しい女子にやつした鬼女に出逢ったという伝説もあるところである。   京都市』
このように書かれている。

この話を発展させ、庶民は色んなことを考えて生活の知恵として活用したのであろう。
勿論、戻り橋には安倍晴明の伝説もあるが、今回は割愛する。

この辺りをほぼ一周した。
今回の街角ウオッチングはこの時点で終了である。
しかしながら、今回の地名には少しは考えさせられる。

地名と云うものは、いろいろな付け方があるが、今回ウオッチングした小寺町や如水(じょすい)町のように、400年以上も前に、僅か10年にも満たない間に存在した屋敷の主の名前を町名にしているということは驚くべきことである。

猪熊(いのくま)1、2丁目は平安京の猪熊小路という通り名から付けている伝統的な地名であり、それはそれで納得できる。
しかし、通り名だけを地名として1、2、3、・・・丁目と並べただけでは個性が無いと感じた市民たちが、過去の瞬間的な歴史的な事を地名にして、善悪は別として、個性を求めた結果、このようになったのであろうと思われる。

都市部ではこのような地名が見られることが多々あるのも、街角ウオッチングの楽しみである。

〔完〕