今回は滋賀県南部の栗東の街をウオッチングして見ることにする。

栗東と云う名前はご存じの方は多いと思うが、その街を訪ねたことのある人は意外と少ないのではないかと思う。
東海道新幹線が滋賀県内を通過している時に、車窓から積水の大きな工場や日清の工場が両側に見えるところが栗東市の中心辺りである。

車で名神高速を走る時なら、栗東ICと云うのがある。このインターの出口もほぼこの近く、街の中心付近である。

競馬ファンの方々なら「栗東トレセン」は良くご存じであろう。
ファンならずとも名騎手「武 豊」氏の名前はご存じであろう。
この武氏、この1月のレースで、史上初の3500勝を達成したということも最近のニュースである。

そしてもう一つ、この栗東に新幹線の新駅「南びわこ駅」を作ろうと云うことで、一時盛り上がったが、知事交代により、それも消えてしまったということもご存知かと思う。

栗東とはこのように、話題性はあるが、「行ったことは無いけど、それ何処にあるの?」そんな街である。

栗東市は南北に細長い市域を持つ。
しかし南半分は山地である。
街ということになれば北半分である。
この街の中心には、JR草津線の手原駅がある。

手原駅の北側は旧東海道に沿う国道1号線、旧中山道に沿い北陸へ向かう8号線、それと名神高速のインターが交わるポイントがあり、自動車交通の要衝となっている。
手原駅の南側は旧東海道が通っていて、この道を東へ行くと石部宿から土山宿へ、西へ行くと草津宿へ行くことができる。

まず東へ行って見る。
少し歩かないといけないが、途中に「旧和中散本舗」の商家がそっくり残っている。
重要文化財である。
また、ここの庭園は大名で且つ庭の設計師、有名な小堀遠州の作で、国の名勝ともなっている。
この辺りは石部宿と草津宿の間の宿として、公家や大名の休憩所も務めた云われている。
和中散とは、あの徳川家康が腹痛を起こした時、薬を献じたところ、たちまち治ったので、それを喜んだ家康が直々与えた名前と云われている。

今度は逆に、手原駅前から西方向へ行って見る。
新幹線とJR草津線が交差する場所で、新幹線線路の東側に空き地がある。
この場所は約50haの規模で新幹線の新駅を作る計画で進んでいたところである。
建設費用二百数十億円を地元自治体(滋賀県、栗東市が主で、ほぼ折半)が負担しないといけないため、当然のことながら建設是非論が激しく展開されていた。
2006年に予定通り着工されたが、その次の年に、不要派であった現知事の嘉田氏が当選したため、建設は以後、凍結となったものである。

このような駅のことを請願駅と呼び、建設費用は地元負担が原則となる。
成功している例もあるし、失敗例もあるので、一概にどちらとも言えない。
聞くところによると。栗東市は必要、滋賀県は不要とのことであった。

このことにより栗東市の財政は大変なことになっていると聞く。
勿論、県からは大幅な援助がされているとも聞く。

今度は手原駅前から思い切り南へ行くことにする。
途中に灰塚橋、栗東市出土文化財センターなるものがあるが、ここには後で戻ることにして、
もっと南の山手の方へ進める。
ここには、JAゴルフ場と日本中央競馬会(JRA)の「栗東トレーニングセンター」がある。

ゴルフ場はともかくとして、トレセンを見てみようとしたが、公開日ではないとのこと。
残念であるが、しようがない。

JRAには、関東の美浦(みほ)トレセンとここ関西の栗東トレセンがある。
ファンの間では良く、関東馬が…、とか関西馬が…、と云われる。
関西馬は強いということで、競馬の世界でも西高東低と云われている。

なぜそうなったのか?
かつて何かの都合で、美浦のトレセンの近所に行ったことがある。
それと栗東との地形を比較すれば一目瞭然、素人目にも良くわかる。

茨城県の霞ケ浦の近くの美浦は平地である。
この栗東は山裾の丘陵地である。
この違いが、馬への調教成果の違いとなって表れていると考えられる。

美浦のコースの坂道は高低差17mと云われている。
栗東のは32mと云われている。
それも栗東では短い距離で登らないといけない。
それと栗東はトレセン内の馬の通路も丘陵地であるがゆえに高低があり、馬も歩くだけでも鍛えられる。
日々の練習や生活環境の差が累積されると、そのような結果になるのも頷ける話である。

更に追い打ちを掛ける話がある。
飲料水の差である。
美浦は普通の水であるが、栗東は裏の竜王山からの伏流水も交えた酒造りもできようかと云う良質の水である。
馬は倍ほども飲むと云われている。

美浦では「栗東留学」という言葉がある。
強く育てるために、行われることもあるという。

さて、競馬の話になったついでに、競馬の歴史の一端を辿ってみる。

我が国では、古来から神社の行事で、競馬(くらべうま)神事が行われていたのは良くご存じの通りである。
神社境内の馬場を直線的に走り抜ける行事である。

日本で円形の競馬が行われたのは、江戸末期の開国以降のこと、外国人の居留地において遊びとして始まったものである。
横浜に根岸競馬場が作られ神戸にも同じようなものが作られた。

これを真似して、日本人による競馬が、各地で行われるようになった。
当時は政財界、軍や皇室と云う上流階級のための催しとして行われ、紳士淑女の集う場所とされていた。
しかしこうした日本人による競馬は馬券の発売ができなかったため、明治30年代には経営上の理由で全て廃れてしまったのであった。
また、この時期の競馬では競走馬として日本馬が用いられた。
速く走ると云うよりも、農耕や運送に適していた馬であったので、今のようなサラブレッドによるスマートな競馬ではなかった。

しかし競馬再開に強力な意向があった。
日清戦争・日露戦争において日本の軍馬が西欧諸国のそれに大きく劣ることを痛感した軍部・政府は、内閣に馬政局を設置して優秀な馬の生産に着手した。
そのために、馬の選別として競馬を行い、馬券を発売して産馬界に市場の資金を流入させるということを目論んだ。
賭博は違法であったが、競馬は軍馬育成の国策に適うとして内閣は馬券の発売を黙許した。
時は明治38年のこと、東京競馬会が設立され競馬が開始されたのであった。
これが日本における賭博競馬の始まりとされている。

東京競馬会の成功を受けて、日本各地で競馬会が設立されたが、配当の仕方が不慣れである上に、八百長の疑いも頻発したため、2年後に賭博競馬は廃止となってしまった。
それでも軍部・政府は軍馬の生産・品種改良等のために競馬開催を必要としていたため、補助金を出した。
そして勝ち馬投票するスタイルにして、的中の場合には景品を出すと云うことで、競馬を継続させた。

この状態で競馬は暫らく続けられて行ったが、補助金が増大してきたため、大正末期には、止むを得ず馬券の発売が認められ、再び賭博競馬に移行したのであった。

戦後、占領軍GHQから日本競馬会が仕切る中央競馬は独占禁止法に違反するとの指摘があり、はたまた解散させられた。
その後は農林省の管轄の下に日本中央競馬会(JRA)が設立され、現在に至っているのである。
競馬は当初は、軍用馬の生産・評価と云う大きな目的があったようであるが、現在はその要は全くなしである。
それではその開催目的は何であろうか?
単なる娯楽であるのなら、それはそれでいいのではと思う。

トレセンから市中への戻りに、先ほどの灰塚橋と出土文化財センターに立ち寄った。
言い伝えによると、もともとこのあたりには非常に大きな栗の木があったそうである。
その太さは何と500人が手をつないで一周するほどであり、その木の影は朝は丹波国に、夕方はに伊勢国に達したという記述もある。
これはかなりオーバーな話であるが、少なくとも大きな栗の木は付近の田畑に影を落として、不作の原因となっていたと思われる。

困った農民たちは時の天皇に願い出て、その栗の木を切り倒したという。
その木を焼いて、その灰を積み上げたのがこの地にある灰塚山と云われる小山と云われている。

かつてより、その太い栗の木に因んでこの地方は栗太(くりた)郡と云われていた。
現在の栗東市と守山市、草津市、大津市の一部のことである。

栗東はその栗太郡の東の地域と云うことで、栗東町⇒栗東(りっとう)市と名付けられたのがこの市名の由来である。

「栗東」を「りっとう」と読むのはさほど難しくは無いような気がするが、「りっとう」と云われてこの漢字を思い出すのは中々難しい「栗東」である。

〔完〕

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