大阪府守口市にある来迎町は豊臣秀吉の時代と江戸の徳川の時代、それに明治維新の時代に大きく関係する街である。

市域である守口の名は、一般に大坂の守り口から名付けられたと云われているが、そうではない。
地名は鎌倉時代、この時代の来迎寺創建の時にはその名前は既に付けられていた。
恐らくは、東にある生駒山への森の入口、そのような謂れであろうと考えられる。

秀吉は大坂城建立に合わせて淀川縁に堤を造った。
その堤は「文禄堤」と呼ばれ、大坂京都を結ぶ「京街道」となった。
実際の土木作業は、毛利輝元や小早川隆景、吉川広家ら毛利勢が担当したと云われている。
この文禄堤、今でも残されて街の一部になっている。
後程、訪れてみよう。

この京街道に、東海道57次の守口宿が出来たのが江戸時代である。
江戸時代は大名の参勤交代が行われる。
西国大名は一旦大坂の藩屋敷に入り、旅装・隊列を整えて東海道を江戸に向かうことになる。
その一番目の宿場が守口宿である。
この宿場は京街道の両側に広がっている。
ということは、現在残っている文禄堤の両側が守口宿である。
これも後程訪れてみよう。

この参勤交代での余談であるが、
大名たちは京の町を素通りしたと云われている。
それは、京に留まり、天皇と何か密談をしたと幕府から疑われるのを嫌ったからである。

明治維新の時は、この来迎町周辺が天皇の御在所となったことがある。
そして内侍所・賢所(ないしどころ・かしこどころ)も置かれていた。
内侍所とは、宮中で天照大神を祀る場所で、天皇が祭祀を行う最も重要な場所である。
この期間は1ヶ月にも満たない短い時間であるが、その時はここが日本の首都であったのである。
これも後で訪れてみよう。

現在「来迎町」と名付けられているところは、これらのことが起こった守口宿の真ん中あたりの小さな町域である。
文禄堤、京街道を歩いて、来迎町を含めた街角をウオッチングしてみることにする。

文禄堤はこの守口に1kmに満たない長さで残っている。
かつては堤であったが、江戸時代には淀川側に次々と土地が造成され、現在は街の中心部となっている。
勿論堤であるからその部分は一段と高くなっている。
2階建ての屋根の高さくらいであろうか?
その堤の両側に家が建てられている。

京阪電車の守口市駅で降りて、北側へ進む。
50mほど行くと頭の上に道路が立体交差している。
この上の道路が文禄堤、京街道である。

その高架道路の北側にある側道のような道を西へ進む。
100mほど行くと文禄堤へ上がって行く坂道がある。
この場所が残っている京街道の西端である。
そして守口宿の西端でもある。
上った場所に大きな「京街道」の看板がある。

街道を北東へ進むと、すぐ左手に日蓮宗系本門佛立宗の義天寺という寺がある。
門前には「南無妙法蓮華経」の大きな題目石が立っている。
ここからずっと西の現在のJR京橋駅の近くの商店街にあった「野江の刑場」から明治の後半になって移されたものと云われている。
この野江刑場では、江戸時代になったころ、淀屋辰五郎や天野屋利平兵衛などと云った豊臣の残党が処刑されたと云われている。

少し行くと先程の高架道路として見上げた橋に到達する。
京街道の地図を填め込んだ比較的新しい石柱が立てられている。
橋を渡り、街道を進んで行く。

ここら辺りは古い町屋が幾つかあり、旧街道の面影が偲ばれるところである。
うだつが上がった虫籠窓の町屋もある。
「OT」という中華料理の有名店も町屋を使って営業している。
旧町屋ではないが、「KEM」という有名な料亭もある。

さらに進むと、右手に道標がある。
「みぎ なら のざき みち」となっていて、右に降りて行く坂がある。
来迎坂という。
京街道かられ分岐されて、野崎観音や奈良へ行く街道である。
この階段を降りたところが「来迎町」である。
京街道から外れて、目的の来迎町に行って見よう。

階段を降りきったところにカラーの遊歩道が交差している。
守口市駅から来ている道である。
これを無視して突き当りまで進み左折する。
普通の住宅街である。
道の途中に旧民家を改装したような「UPP」という小さいカレーの店がある。
現在の来迎町はこれぐらいが特徴であろうか…。

道は突き当り、別の町名になる。「竜田通」という。
この突き当りが「難宗寺(なんしゅうじ)」という本願寺派の大きな寺である。
越前吉崎御坊を出て大坂に向かった蓮如上人が、ここより北の枚方出口に光善寺を建立し、次にこの寺を建立したものである。
その後蓮如上人は、山科御坊、紀州鷺森別院、石山御坊と建立していくのであった。
蓮如上人亡き後、本願寺は信長との戦いに巻き込まれていったのは良く知られていることである。

難宗寺には2層の城の櫓のような立派な高楼が建っている。
門前に「明治天皇守口行在所」の石柱がある。
また塀の角の街道筋には「御假泊所」の石柱も建っている。

難宗寺からさらに進む。
次は「盛泉寺(じょうせんじ)」の門前になる。
この辺りは「浜町」と云う町名になる。
この寺は東本願寺の大谷派の寺院である。
東本願寺そのものができたのは江戸時代であるから、難宗寺が建立されたかなりの後に大谷派初代であり、家康に庇護された教如上人が建てた寺である。
東本願寺は浄土真宗の勢いを2分するために家康が創始させた寺で真宗大谷派という。
恐らくこの守口にも本願寺派の勢力分断目的で、京都の東西の本願寺の位置関係と同じく難宗寺の東に盛泉寺を建立したのであろうと思われる。

難宗寺が西御坊、この盛泉寺が東御坊と呼ばれている。
どちらの寺も大坂の陣で兵火に合い、その後も幾度かの風水害にあっている。
両方の寺の現在の本堂は江戸後期の建築である。
盛泉寺の門前には、「明治天皇聖跡」「史蹟 内侍所奉安所阯」の石碑が立っている。

なぜ天皇がこの地に滞在し、内侍所もここに置かれたのか?
その経緯に少し触れてみよう。

1868年の1月に、徳川慶喜を長とする旧幕府軍との「鳥羽伏見の戦い」に勝利した官軍薩長軍は、その中心人物である薩摩の大久保利通を中心に、取り巻きの公家を除外した新しい天皇中心の政治体制を目指した。
そして板垣は大坂遷都を建議したが、京都の公家たちの猛反対に合い、仕方なくまずは「大坂行幸」に修正し、天皇のとりあえずの大坂行きが決定した。

3月12日に天皇は大坂に入り、この難宗寺に宿泊した。
そして、宿泊所の東にある盛泉寺に祀りごとを司る内侍所を置いたのであった。

大久保はその内、行幸状態はうやむやとなり、それにかこつけて、大坂に政庁を確立し首都にしようと目論んでいたが、反対勢力が現れた。
新潟出身の旧幕臣、前島密である。
前島は4月に江戸遷都案を提案した。
しかしそれも公家たちの猛反対に合ったので、大坂と同じように、とりあえずの江戸行幸で落ち着いた。
そして江戸行幸が実行され、今に至っている。

このように数週間という短い間であったが、大坂が守口が首都?であったのである。

さて、京街道、文禄堤に戻ろう。
この盛泉寺から京街道を挟んだ現在の国道1号線の手前が守口宿本陣跡である。
現在は大きな旧家が建っている。
恐らくはここであろうと思うが、石碑も何も見つけることはできなかった。
この場所が現在見ることができる文禄堤の終点である。
後は平地の京街道となり、京へ向かう。

国道1号線の向こう側に渡ってみる。
100m程行ったところに、一里塚がある。
京街道を旅してきた人たちに、ここから守口宿であると教えるものであったのであろう。

今度は、現在の京街道である国道1号線を駅まで歩いて見ることにする。
浜町の交差点、八島の交差点を過ぎると、地下鉄守口駅の上になる。
左手には守口警察署、守口市役所がある。
市役所はかなり手狭になっていると云うことで、代替地を求めた建て替え論があるが、なかなか進んでいない様である。

更に進むと今度は右手に守口市民会館、そして吹奏楽のトップ校、淀川工科高校がある。
風向きによってはこの辺りは吹奏楽を練習している音が良く聞こえて来るが、今日は静かである。
左手にSY電機の本社がある。
近年、超大手のPANA社に吸収されたが、どうなっているのであろうか?
社名看板などは全て取り外されている。

SY電機本社前の道を通り、最初に潜った京街道の陸橋を潜って、守口市駅に戻ったのであった。

ウオッチングの終わりに今回の街角、来迎町の由来について触れてみる。

来迎町は、鎌倉時代に大念仏宗佐太派の総本山として「来迎寺」がこの地に創建された所である。
しかしこの寺、住職が交代するごとに移転をするという決まり事があり、現在までに26回場所を変えていると云われている。
それでも末寺が63ヶ寺もある総本山であったと云われている。
現在の来迎寺は、同じ守口市内の国道1号線を京都方面に行った佐太中町にあるが、創建の地は来迎町(らいこうちょう)であると説明されている。

創建された時代は鎌倉時代のことであるから、まだ堤も京街道も、勿論、難宗寺も盛泉寺も何もない時代のことである。

来迎寺が建立され、その寺を中心として守口の街が形成されていったのであろう。
守口のそのルーツの場所が来迎町であると云っても過言ではない。
〔完〕