「六十谷」というところは大阪の天王寺から出ているJR阪和線が、大阪府境の和泉山脈を越え和歌山県内に入り、大河紀ノ川を渡る手前にある六十谷駅で下車したところの街である。
今回はこの駅で下車して、この和歌山市の北部に広がる六十谷の街とその周辺をウオッチングしてみることにする。

先ずは予備知識を仕入れて行こう。
話は古くなるが、イイクニ(1192年)創ろう鎌倉幕府が発足したころの文書に、
「按ずるに六十谷は墓所谷なるべし。墓所の字を忌みて同音の字に代えたるなり」
さらには、
「村の北山麓(紀泉高原)に行基の庄・三昧(さんまい)という一村の墓地あり…」
これは六十谷地区にある有功に伝わる『有功(いさお)郷土史』に書かれている内容である。

すなわち、六十谷というところは墓地で、昔から「三昧」、隣の溜池を三昧池と呼んでいて、その地名は「墓所谷」であるが、墓と云う字を嫌い、「六十谷」に換えたものであると説明している。
またこの六十谷は和歌山を舞台にして「華岡青洲の妻」などを書いた小説家「有吉佐和子」の小説「紀ノ川」の主舞台ともなっている。

本恵寺と云う寺がある。
この墓所とする谷の入口にある寺である。
今回はここを訪れるのも一つの目標としよう。

JR阪和線に乗って、六十谷駅で下車した。
改札や構内設備は立派であるが、改札を出てみると案内地図も何もない。
多くの通勤通学客が乗り降りする駅であるが、駅前には細い道路が入り組んでいるだけで、駅前広場などは無い。
朝晩の送迎ドライバーの方々は大変だろうな?と想像する。

駅に隣接している道と、30m程行ったところにある道と、どれを選ぶか迷ったが、その30m先の道を歩いて山に向いうことにした。
この道の方が街中を通っているだろうと云う雰囲気からの判断である。
しかしこの選択が大変な無駄を生み出してしまうことになったのである。

駅の西側(紀ノ川河口方向、瀬戸内海方向)は街と云っても農村地帯である。
田畑と人家がバランスよく配置されている。
大きな入母屋造りの農家が点在する。

右手の山の方、高い方を目指し歩いて行く。
旧村を通り抜けようかと云うあたりに整備された自動車道が山の方に向かっている。
この道を行けば確実に行けるな、と思いこの道に沿ってグングンと坂を登って行く。

大きな住宅地である。
ニュータウンと云える団地の部類である。
この団地を抜けたあたりか?
あくまでも本恵寺という寺を探している積りである。

途中に地図と云うか、この団地の概略図があった。
この団地を抜ける箇所も表示されている。

丁度そのあたりに向かっていると思われる小学生の帰宅グループを見つけた。
後をついて行った。
小学校は何処にあるのか分からないが、毎日の山登りは大変だろうな?と思われた。
反面、鍛えられるからスポーツ向きの子供に成長するだろうな?とも思った。
一人の子供は団地の端の端まで歩いて家の中に入って行った。

この団地には外部と繋ぐ道があるのだうか?
団地を取り囲むように道路が通っているだけである。
団地の外は何処も雑木林のようで、この団地が山登りの終点のようである。

下まで戻らなければならいけないのかな?どうしよう?と思っていた時、上手い具合にご近所の方と思しきウオーキングウーマンが通り掛かった。
聞いて見た。

「本恵寺へはどう行けば良いんですか?」
「本恵寺? 知らないですね」
「六十谷から来た谷にあるって聞いたんですけどね」
「それなら下の谷へ下りないといけないと思いますよ。谷へ下りる道はこの柵を開けて入れば行けますよ…」
と柵の所まで連れて行ってくれた。

お礼を行って、柵の外へ出ようとすると、
「猪には気を付けてくださいね…」
とかなり危険なように云われた。
「はいはい、気を付けます」
柵の外の山道を下った。

山道は普通のハイキングコースみたいで、通行に危険な個所は無い。
昼間だから猪も出ないだろうと、スイスイと下の谷底の川の道まで降りたのであった。
降りきった川沿いの道は普通の自動車なら通れそうな広さがある。
この場所の川向かいには「出世稲荷」と云う祠の案内があるが、目的ではないのでパスしよう。
この道を上るか下るか決めないといけないが、今までにかなり上って来ていたので、その疲労との駆け引きをした。
寺が見つからなくてもいいか、と思って下ることにした。

下って行く途中に寺があるのかと予想していたが、20分程度下っても何もない。
人家もない。
河原が広がっている場所のところどころに農作業小屋が見える程度である。

更に下る。
この川は立札により「千手川(せんじゅがわ)」という名前であることがわかる。
恐らく、千手観音に纏わるネーミングであろう?

やっと人家が見えてきた。
川の両側に家が並んでいる。
右手の川の向こうの広い集落の奥の方に何やら赤い建物が見えている。
建築物の雰囲気からすると、あれはお寺であろう…。
兎に角行って見ようと、対岸への橋を探した。

少し先まで行くと橋があった。
「かんのんばし」と云う。
これは間違いが無いな…。
橋を渡って、その寺の方向を目指したのであった。

立派な山門である。山門下の石段の登り口には、法華宗の題目が書かれた石柱がある。
しかし寺の名前は何処にも書かれていない。
まあ別の寺でもいいかと、もうかなり疲れている。

階段を上って本堂がある所まで到達した。
横に寺務所もある。
どなたかいれば聞いて見ようと、訪ずれてみた。

まずはご朱印をお願いして聞いて見た。
この寺は役行者(えんのぎょうじゃ)小角を開基とする真言密教の霊場であったとのことである。
御本尊は本堂に安置されている千手千眼観世音像で、役行者の作と云われ、桓武天皇の信仰が厚かったと云われている。

もともと寺のあった場所は現在よりもずっと山の中にあって、この墓の谷の護り寺であった。 その後、鎌倉時代に現在の土地に移され、禅宗の寺になった。
更に戦国時代には兵火に焼かれたが、後に再興された。

その後、紀州藩家老で新宮城主の水野源重が日蓮宗に改宗し、現在に至っている。
大奥様であろうか? お茶を出して頂き、住職からご朱印を頂き、寺を後にしたのであった。

先程の橋のところまで戻り、川に沿って下って行く。
川の中のコンクリートの河川敷には、色んな模様の造作が施されていて、目を楽しませてくれる。

10分ぐらい歩いたところで六十谷の駅前に到着した。
「なあ~んだ。こんなに近かったんだ。山の上まで大きな回り道をしてしまった」
と反省しきりであった。

六十谷の山手をウオッチングしたので、今度は平地を見てみよう。
六十谷駅の南側には上淡路街道が通っている。
この道を上下してみる。
まず上り、駅の東方向である。但しここは六十谷では無く、直川(のうがわ)という地区である。
良くは知らなったが、少し行ったところに「開智学園」と云う中高校がある。
新設かと思ったが、調べてみると古くから和歌山にある学校であり、この場所へ移ったようである。
以前の名を「修徳学園」と云う。
かつては女子だけの学校であったが、最近の波であろう、名前を変え共学校になっている。

今度は下り側、西方向である。
暫く行くと、右手奥に「射矢止神社(いやとじんじゃ)」がある。
この辺りの産土神である。

この神社の境内や周りの畑地には弥生時代の土器などが出土している。
この六十谷というところは古くから開けていた土地であることが分かる。
また、神社名から矢を止めると云うことで、戦時中は「弾丸よけ」の霊験ありと、特に信仰を集めたということである。

少し行くと、道幅が広くなり、また細くなる。
この細くなったところの左手奥に、「和歌山市立和歌山高校」と云うのがある。
これは新しい学校なのかと思ったが、調べてみると以前の「市和商」と云う高校であった。
この学校も市中から引っ越してきて、そして名前も変えたようである。
市和商と云えば高校野球が強かった学校である。
出身者としては、元阪神で監督まで務めた藤田平氏が良く知られている。

ここから更に西に行くと、別の地区名に入ってしまうのでここで引き返すことにするが、この先の右手には近畿大学の付属中高がある。

六十谷(むそた)は今や中高生が集う街と化してしまった感がある。
その証拠に、帰りの電車はさながら学園列車で、賑やかな車内であった。

〔完〕