京都の三条通を東に行って蹴上の坂を越えて山科に入り、日ノ岡の次に「御陵」と云う住所地がある。
近年は京都地下鉄と京阪電車の共用の地下路線が通っていて「御陵」と云う駅も出来ている。

今回はこの御陵で下車して、街角のウオッチングをしてみる。

駅を降りて分かったがこの駅のホームは地下2階と3階に分かれている。
地下2階は京都市街地方面、3階は山科や大津方面行きである。
ここから地下鉄は山科を縦断して六地蔵へ向かい、京阪線は地上へ出て逢坂山を越え、浜大津へと線路が分かれているのでこのようになっている。
地下がこうなっているとは、地上からは想像だに出来ない。

地上へ上がって先ず北の山麓方向へ向かう。
永興寺通りと云う北へ向かう道を歩く。
途中は僅かな登りの住宅街である。
道は広くない。
車が来ると歩行者でも往生する場所がある。

登り詰めると少し広いところに出る。
川と交差する。
この山麓を流れている琵琶湖疏水である。

この琵琶湖疏水、京都の殖産興業のために琵琶湖の水を取り入れるために開発された水路である。
明治の中盤に時の京都府知事・北垣国道氏と青年技士・田邊朔郎氏を中心とした大事業であった。
市民のための上水道となったり、発電所を作ったり、その電気で市電を走らせたり、見事な事業を行った。

その開発された資源は現在でもまだまだ有用である。
琵琶湖疏水も勢いよく流れていた。

疏水を渡ると、そこには永興寺と云う曹洞宗の寺がある。
隣に山科豊川稲荷も祀られている。

疏水縁を東に歩く。
玉垣に囲まれた御陵も疏水の向こうに見えて来るが、先ずは左手の寺院を訪れてみる。
日蓮宗の本圀寺と云う寺院である。
新しい寺院である。

この寺院、元々は京都の市街地六条堀川にあった。
秀吉の命により西本願寺建立のために寺領を分割献上したと云う歴史も持っている。
現在の西本願寺の門法会館から駐車場のあたりであった。
昭和44年に、この山科の地、御陵の北に引っ越したのであった。

この寺院、金色が好まれている。
寺門の仁王像は金色、梵鐘も金色、そしてこの寺院にはあの加藤清正公の廟所もあるが、そこも柱などは金色に装飾されている。

宗祖日蓮の巨大な像も建っている。
この像は青銅色であり、安心したのであった。
寺務所を訪問し、ご朱印を頂いて下山したのであった。

疏水べりに出て、東へ向かう。
疏水に沿って御陵がある。
御陵が尽きる所で、御陵に沿って降りて行く道があったので、それに沿ってフェンス際を進んでゆく。
降りきったところで、御陵の正面に向かう参道へと出る。

今度は参道を御陵の内部へと進む。
石を埋め込んだ道である。
暫く行くと御陵の参拝所へ出る。
「天智天皇山科陵」とあった。
この御陵は、かつての前方後円墳ではなく、八角形の墳墓である。

天智天皇は奈良から大津へ都の鞍替えをした天皇である。
歴史の教科書では大化の改新の中大兄皇子として良く知られている。
水時計を開発した人物としても知られている。

天皇は自らの子である大友皇子を天皇に立てたかったようであるが、死後に大海人皇子との間に有名な壬申の乱が起こった。
大海人皇子が勝利して天武天皇として即位し、都はまた奈良へ帰ったのであった。

ここらあたりの権力争いは複雑ではある。
恐らくは、朝鮮半島の勢力争いがそのまま移入されたものであろうと思われる。

余談であるが、この天智天皇を祀る神社として、大津京の跡地の高台に近江神宮が昭和の時代に建立されている。

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ  我が衣手は 露にぬれつつ」

この小倉百人一首の第一番目の歌を詠んだ天智天皇に因み、毎年1月に競技かるたのチャンピオン大会が行われているのも良く知られているところである。

御陵に参拝し次に向かおう。
三条通りに出て、南東方向に道に沿って歩く。

暫く行くとJRの東海道線のガードを潜る。
その先、左手には大学がある。
京都薬科大学である。
住所地は御陵中内町という。

この辺りが御陵の東限なので、ここから西に向かう。
西に行くとこの薬大のグラウンドがある。
このグラウンドは「御陵中筋町」の住所地であるが、グラウンドの西南の隅あたりは「御陵血洗町」と云う住所地である。
なぜ血洗町なのか?
それは義経伝説と関係している。

前に訪れた蹴上の章でも述べたが、義経が奥州平泉へ旅立つ時の話である。
繰り返しになるが、ご容赦願いたい。

義経が16歳の時、金商人の金売吉次に伴われて奥州平泉に旅立つことになった時のことである。
蹴上まで来た時に、平家の手の内の物と思われる関原与市以下9名の郎党と出くわした。
この者らの馬の後足で水を掛けられたので、怒った義経はその者らを切って捨てたとも、いきなり襲われたので切って捨てたとも云われている。

その切って捨てた時の刀の血を洗ったという池があったと云うことで名付けられたのが、この血洗町である。
そして血を洗った後で腰を掛けたのが腰かけ石、どちらもまず大学の構内に入らないと見られない筈である。

門の横に管理人室があった。
管理人氏がいたので、
「血洗い池を見たいんですが」
とダメ元でリクエストした。

「良いですよ。しかし池は無いんです。池の一部みたいなものが向こうの住宅地にあるようですけど、良くは分からないみたいです。義経の腰かけ石なら校庭の隅に有りますので、ご案内しましょう」
と、気軽に歩き出してくれた。
そして管理人氏は、
「腰かけ石の所は現在は研究用の薬草園になっていて入れないんです。カメラでズームアップして移してください」
と、その腰かけ石が見えるところまで、連れて行ってくれた。

薬草園のフェンス越し、15mぐらいか? 腰かけ石なるものが見える。
云われるままにカメラで写し、お礼を行って、大学グラウンドを後にしたのであった。

ここで、御陵の北と東と南をウオッチングしたことになる。
次は西である。

道が無いので一旦南へ下がり、ぐるっと回って北へ向かう。
丁度大学のグラウンドの裏手になるのであろう、京都市立鏡山小学校と云うのがある。
子供たちの下校時に当たっていた。
至る所に、見守り隊が立っている。
ウロウロすると怪しまれそうなので、そこそこに立ち去った。

西へ向かう。
大きな中学校がある。
京都市立の花山中学校という。
御陵の住所地とは外れ、北花山となるが、この辺りもウオッチングしてみる。

少し西に「華山寺」という寺がある。
平安時代初めに清和天皇が建立したと云う謂れと、藤原道長の姉であり、円融天皇女御で一条天皇の母である東三条院詮子によって建立されたと云う謂れがある寺である。
境内には「山科区の銘木」と言われるケヤキの木があり、周りからは良く見え、目印になっているようである。

またその南に西国三十三所番外札所「元慶寺」という寺がある。

この寺は六歌仙の一人として知られる僧正遍昭(へんじょう)の発願で、元慶元年に陽成天皇の母藤原高子が建立したと云われる。
本堂には、本尊薬師如来の他に僧正遍昭そして花山法皇の像が安置されている。

平安時代の中ごろに、藤原道長の父兼家が娘詮子の産んだ親王(後の一条天皇)の即位を望み、元慶寺で若い花山天皇を強引に出家させたそうである。
花山法皇は出家後、西国三十三ヶ所巡礼を企画し定めたとして良く知られ、この寺も番外になっている。

また、小倉百人一首の中には僧正遍昭の良く知られている歌がある。
「あまつ風 くものかよひ路 ふきとぢよ 乙女のすがた しばしとどめむ」
寺の境内には歌碑も建てられている。

ここから北へ行く。
JR東海道線のガードを潜り、御陵岡ノ西町、御陵岡町を通る。
京都市立の陵ヶ岡(りょうがおか)小学校もある。

個人住宅の他にも商店やビジネスのオフィスもある。
そして御陵鴨町を過ぎる。
間もなく三条通に出て、広い街である御陵(みささぎ)のウオッチングは終了となった。

〔完〕