大阪市には「波除」という地名の街区がある。
JR大阪環状線の海側に近い「弁天町駅」の東側と北側に広がる街である。
弁天町駅で下車して波除の街をウオッチングすることにする。

JR弁天町駅は、一昔前に大阪環状線の一周が繋がったのを記念してこの地に「交通科学館」と云うのができたことで知られる。
この科学館は後に「交通科学博物館」と改称され、鉄道好きの子供たちや大人にも人気なところである。

しかしもう一時代が過ぎたようで、JR西日本はこの博物館の去就を取沙汰している。
JRの計画によれば京都の梅小路蒸気機関車館を拡張する形で新たな鉄道博物館を建設する計画であるという。
梅小路の土地はまだまだ広いので、それはそれでいいと思うが、大阪のチビッコやファミリーにはどうであろうか?
遊園地も数少なくなり、そしてこのような施設も無くなって行き、その跡地にはマンションなどが建設されるのであろうか?

弁天町の駅に隣接した西側には、高層マンションやらホテルやらが並ぶ。
東側はこの博物館を含んで昔からの街並みで、対照的である。

駅を降りて博物館を外から眺めてみると確かに老朽化は否めない。
外から見える展示車両も色褪せていて、何とも言えないのが実感である。
跡地となるにしても、やはり皆が楽しめる施設として有効に活用して欲しいものである。

この博物館があるところが波除3丁目である。
ここから北と東が波除という街区である。

環状線の高架線路に沿って北に向かう。
まず西隣の弁天町との境界を北に歩いて見る。

10~15分ぐらい歩いたところの弁天町側にある弁天東公園に「波除山跡」という石碑がある。
かつてはこの場所に波除山と云うのがあった。

江戸時代にこの北にある安治川(あじがわ)を開削した時の残土を積み上げ、山としたものである。
川の入口であるという目印と、そして大波をここで食い止める目的であった。
今で云うと灯台と防波堤の役割であった。
この山を目印として航海してきた船は安治川を遡り、大阪の各所の市場へ荷物を着けることが出来たのである。

大阪は水の都と云われる。
いつの時代にも水と対話し、そして都に相応しいりそれなりの装備がされていたのだ、と感心した。

それでは現在の波除は何処にあるのか?
この北に安治川に架かる橋がある。安治川大橋と云う。
この橋の上から大阪湾方向を眺めて見ると半円形の大きな水門がある。
急峻な太鼓橋のように見える。
この円の中にUSJ(ユニバーサルスタジオジャパン)のホテル群の遠景ががスッポリと収まってしまう。

この安治川水門、イザという時には、これを河口に倒し、潮の逆流や津波を防ぐと云う仕掛けだそうである。
効果の程は専門でないのでわからないが、これだけ大きければ効果は有りそうである。
まさに現在の「波除山」である。

安治川大橋の袂は波除5丁目である。
ここから東へと向かう。
途中で環状線のガードを潜る。
この環状線の両側に公園がある。「波除公園」という。
この公園の中に「市岡新田会所跡」の石碑がある。
この地域全体は市岡と呼ばれていたが、現在の市岡は波除の南側の街区である。
府立の市岡高校があることでも知られる。

この新田会所の裏側に弁財天が祀られていたとの説明盤もある。
弁天町という地名の由来となったものである。

この公園から東へ進む。
この辺りは工場街となっている。
機械油の匂いが立ち込める金属系の工場群である。

工場跡地を住宅地にと云うパターンもある。
そこここに背の高いマンションが見受けられるところでもある。
このあたりは波除4丁目である。

更に行くと中央分離帯がある道路に出る。
この先は境川と云う街区である。

波除の街の東北端から、南にそして西に、駅に戻る方向で歩いて行く。
大きなビルもある「HRC」との表示がある。
商業ビルで無いようなので詮索はしない。

このビルの前に、小学校が管理している広場がある。
小学校の飛び地の運動場なのであろう。
誰もいないので単なる金網で囲まれた空き地に見える。

近くには「抱月公園」と云う少し大きな緑地の公園がある。
なぜ抱月公園と云うのか? 興味がそそられる。
明治の劇作家・島村抱月に関係するのかと思ったが、関係は無いらしい。
調べてみると、以前はこの辺りは抱月町と云ったそうで、この土地の地主の邸宅にあった茶室抱月庵に由来しているらしい。

この公園の南には大きな学校がある。
回り込んで校門を覗いてみた。
府立港高等学校という。

この日は卒業式で、丁度式が終わったところらしく、正門前には花束を抱えた生徒たちや先生達が大勢いた。
写真撮影のポイントになっている。

校門の横には、「大阪府立市岡高等女学校跡 創立百周年記念」という石碑がある。
この港高校の前身は女学校であったことを示している。
戦後になって学校教育法の改革が行われ男女共学になった時、隣の男子校、市岡高校との間に職員生徒の交流・再編が行われたと云われている。

高校の校門を見たので、抱月公園まで戻る。
この公園辺りから南西側、駅側は、商店や民家が密集している昔風の街となっていて好ましい。

町中の道を行くと今度は小学校に行き当たる。
波除小学校である。

あとは何か神社でも見つけようと幾つかの街角を覗いてみたが何も見つけられなかったのは残念である。
金網フェンスを通して、紀勢本線の特急「くろしお」の頭が見えるとこまで戻って来ていた。

もう交通科学博物館、弁天町の駅まで戻ってしまったのであった。
ウオッチングはここで終了である。

ここで少し余談をさせていただく。

東京の隅田川の河口に近くに勝鬨橋が掛かっている。
その橋の銀座側の袂に東京築地市場がある。
築地市場の東門に向かう道の左手に、小振りながら立派な神社が鎮座している。

江戸時代に佃島や近くの人々が中心となって築地の本願寺用地やその周辺を埋め立てたことがある。
しかし、その工事は難渋を極めていたと云う。
堤防をいくら築いても波にさらわれてしまうのであった。

困り果てていたある夜、海面を光りを放って漂うものがあり、不思議に思って船を出してみると、それは立派な稲荷大神のご神体であったと云う。
皆は畏れて波間を流れてきたお稲荷さんの御神体を祀ると、その後、工事は順調に進捗したと云われている。

この神社は「波除稲荷」と名付けられて、それ以来現在まで「災難を除き、波を乗り切る」神社として築地の人々はもとより多くの人々の崇敬を集めているのである。
また、境内には「海老塚」「すし塚」などの水産物の霊を祀る塚もある。

大阪の「波除(なみよけ)」と東京の「波除」、

ところ変われば品変わるとは、このことであろうか?

〔完〕