大阪市のほぼ中心に道修町はある。
道修町は医薬業と共に発展してきた街である。
堺筋と御堂筋に挟まれた僅か500m程度の通りの東半分ぐらいが薬業の町である。
全国的に有名は製薬会社の本社・拠点もここに置かれているのは、その歴史・伝統を大切にしているからであると思われる。

まず、道修町が「くすりの町」として発展してきた歴史を見てみたい。
豊臣秀吉が大坂の三の丸を築城する際に、その外郭に商業ゾーンとしての船場を作った。
当時の物流は船が主だったので、船が出入りでき商品の受け渡しが出来るよう川を網の目のように張り巡らした。
その一つに当時の名称はどうだったかわからないが現道修町の地域もあった。

この町に薬種問屋が集まり始めたのは、江戸時代初期寛永年間に、一説によると当時の将軍秀忠の命で堺の小西吉右衛門が薬種屋を開いたのが切っ掛けになったと云われている。

時代は100年ほど経って、享保年間のこと、徳川八代将軍吉宗が大坂で病に倒れた時、この町から薬を献じた。
吉宗の病状は次第に好転、快方に向かった。
その功があって、この町の薬種商124軒に「中買仲間」の株仲間の免許が与えられ、中国清やオランダなどから輸入される漢方、洋薬、そして和薬を一手に取り仕切り、以後発展してきた。

明治時代になると株仲間は解散となり、誰もが自由に薬の商売ができるようになった。
そうなると常であるが、悪質な業者が出て粗悪品を売り付けることが目立つようになった。
しかし取り締まる法もない。

そこでこの町の薬業者はブランドに対する信用を守るため、自前で品質検査を行う「大阪薬品試験会社」を設立し、利用者の安全と信用の獲得に努めたのであった。
更に、有力者達により、薬の流通業だけでなく、製薬製造会社を創業したり、薬の学問所、大阪薬学校、少し遅れて道修薬学校を開校したのであった。
これらは現在の製薬企業へと、また学校は現在の大阪大学薬学部、大阪薬科大学に引き継がれ、発展しているのである。

少々前置きが長くなったが、道修町をウオッチングして見る。
まず堺筋との交差点道修町1丁目の東に重要文化財、登録有形文化財の商家がある。
20世紀の初めに薬業の商店として建てられた小西家住宅である。
木工用ボンドで知れ渡っているコニシ社であるが、現在はこの会社の不動産部が管理しているようである。
道修町の古い商家の建物となると、この小西家ぐらいであろうか?

交差点から西方向を眺めると「漢方薬」の大きな看板が目立つ。
道修町のビジネス街の通りである。
順番に眺めて行くことにする。

交差点には小野財団のビル、その横には少彦名神社、神農さんへの参道と社務所、資料館が並ぶ。
神社は後にして、先に進む。
右手を見ていくと「カイゲン」「和光純薬」「塩野義製薬」と並ぶ。
塩野義のビルの緑地帯には「大阪薬科大学発祥の地」のモニュメントがある。
も少し行くと御堂筋との交差点道修町3丁目に行き当たる。
御堂筋の向こう側には、右手に「武田薬品」の本社ビル左手は大阪ガスのガスビルが並んでいる。
更に武田薬品の向こうに「小林製薬」の本社がある。
ここでUターン。

今度は戻りつつ反対側を見ていく。
まず塩野義の前に「田辺三菱製薬」のビル、但し現在は新築中の白いパネルの中である。
続いて「大日本住友製薬」、武田薬品のレトロな本店ビルの筈であるが、これは改装中。
白テントに覆われていて、とても残念である。

少し行って、「ニプロファーマー」の大阪店、隣に「住友化学」のビルと云う風に、沢山の会社が並んでいる。
堺筋を挟んで向こうには「扶桑薬品」のビルもある。
企業探索はこれで終わりである。

最後に少彦名神社にお参りして、くすりの資料館も見学してみよう。

小さな神社であるが、参道の片側のガラスケースの中に良く見慣れている薬が並べられている。
本殿には直ぐに到達し、お参りをするとともに、ご朱印を頂いたのであった。

さてこの少彦名(しょうすくなひこな)神社の由来はどうであろうか?
先に触れたようにこの道修町の薬種商は輸入された漢方や洋薬を一手に扱うのであるが、その品質の鑑別は非常に難しい。
日々神にお祈りしていたのであった。
その神様とは、農業と医薬の神、古代中国の皇帝であった炎帝神農氏である。
各商家には像や掛け軸が祀られていたのであった。

また、薬種中買仲間では、有志が伊勢講を結成し、伊勢神宮にお参りすることで神のご加護も祈願していたのであった。

商売が繁盛し、和薬の取り扱いも増えてきたのを機会に、仲間寄合所に京都の五条天神宮から医薬の神として崇められてきた少彦名命(しょうすくなひこなのみこと)を分霊・勧請して、以前からの神農氏と合祀したのが、この神社の始まりである。

明治になって、株仲間の解散とともに伊勢講に変わって「薬祖講」が組織され、業界の連帯感を維持し、人々の命と健康を守る活動を続けているということである。

11月22、23日にはこの神社の例祭、神農祭が盛大に行われる。
約5万人の人出がある大祭で、大阪市の無形文化財に指定されている。
また大阪では、大阪の一年の祭りは1月の恵比寿祭りで始まり、神農祭で終わると云われ、この祭りは「とめの祭」とも云われている。

その後、「くすりの道修町資料館」を見学した。
神社の社務所の3階にある。
江戸時代からのこの町に関わる薬種商の文書類が保存展示されている。
商都大阪の歴史を知る上でも貴重な資料と云うことである。

また、少彦名神社と道修町は文学作品の舞台にもなっている。
谷崎潤一郎作「春琴抄(しゅんきんしょう)」である。
七代も続いた道修町の老舗の薬種商の娘お琴が幼くして失明し、三味線に精を出して師匠にまでなる。
それを店の丁稚佐助の愛が支えて行く物語である。

丁稚奉公と云えば、過去にこの道修町に奉公して大成した企業家は数多い。
例えば、サントリーの初代社長の鳥井信治郎氏、アサヒビールの初代社長の山本為三郎氏である。
厳しい修業時代を過ごされたのであろうと思われる。

この道修町(どしょうまちorどしょまち)の町名の由来である。
このあたりは古くから道修谷と呼ばれていたという説が有力であるが、その他にも付近に道修寺という寺があったとか、北山道修という医師が住んでいたとか、またこの辺りは私塾が多く、修学修道の地であったとかの説もあり、確定は難しい。

最後は、ある丁稚のエピソードである。
大正の頃、この「どしょまち」という難解な町名のために、迷子のようになり、とうとう泣き出してしまった丁稚12才がいた。

この丁稚の奉公先は道修町の南隣りにある平野町の薬種問屋で、奉公に出てまだ2日目のことであった。
店の番頭から、
「これを、どしょまちの武長はんに届けてきい」
と漢薬の入った通箱が渡された。
武長とは武田長兵衛商店、現在の武田薬品工業のことである。

丁稚は船場界隈を何時間も歩き回ったが、「どしょまち」ま見つからない。
おろおろしながら店にもどり、番頭に、
「『どうしゅうちょう』という町はあったけど、『どしょまち』という町はなかった」
と泣きついた。
番頭はあきれ果てて、
「がしんたれ!」
と怒鳴りつけた。
「がしんたれ」の「がし」は餓死のことで、「飢え死にしてしまえ」という意味である。

この丁稚とは、後に劇作家となり『君の名は』などの名作を書いた菊田一夫のことである。
そして自伝的小説『がしんたれ』で、この町名にまつわるエピソードを紹介している。

難読中の難読、道修町(どしょうまち)であった。

〔完〕

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です