今から18年前の1995年1月17日午前5時46分52秒、関西地方を文字通り揺るがす「兵庫県南部地震」が発生した。
この地震、その被害の大きさから阪神・淡路大震災と名付けられた。
過去のことではあるが、まだまだ記憶に新しい。

地震直後から先ず人命の救出・救護、当座の生活場所の確保、ライフラインの復旧が行われたが、しかし…。
残念ながら、この地震でお亡くなりになられた方は、行方不明も合わせて6347名、この地震は直下型であったため、その9割方は家屋倒壊と家具の転倒による圧死だったと云われている。
縦揺れであるので、1階部分が屋根や2階部分の重量に耐えきれず倒壊し、その1階にいた人に犠牲者が多かったと云われている。
何の前触れもなく、突然とやってきて、逃げる間も何もなく、多くの人はその瞬間に死出の旅を止む無くされたのである。
その意味では、近年に無いむごい地震であった。

阪神電車の「青木駅」と云えば、地震の後、マスコミで毎日のように報道されたので、ご存じの方も多いであろう。
この駅は神戸市でも大阪市に最も近い東灘区にある。

大阪神戸を結ぶ電車の線区は4線区ある。
JRの新幹線、東海道線、阪神本線、阪急神戸線である。
新幹線は高架橋の落橋を受けて、直ぐには運転再開とはいかなかったが、在来電車は被害があった箇所を避けて、ほぼ翌日から運行可能な区間の運転を再開した。

大阪から運転が可能なところは何処までかと云うと、尼崎を過ぎ武庫川を渡って西宮に入った直ぐの所、それぞれ甲子園口、甲子園、西宮北口という駅までであった。
人々はこれらの駅から、神戸の市内まで3時間も4時間もの時間を掛けて歩いたのであった。

直後は、リュックを背負ってマスクをした人たちが列をなして歩いた。
一つの流行スタイルともなったのである。
今でもそのような姿の人を見かけると、震災のことを思い出してならない。
かく云う小生も、神戸市内に住む社員の見舞に水や食料を持って歩いたものである。

電車事情は一週間程経って、先ず阪神電車が神戸市内の入口まで開通した。
その入口の駅が「青木駅」である。
地震から9日後の1月26日の運行開始であった。

その後、JRが2月8日に住吉駅まで開通した。
阪急はというと、ダメージが大きすぎて、直ぐには神戸市内には入ることができなかった。

その後全面開通を迎えることになる。
JRは4月1日、新幹線は4月8日、阪急が6月12日、阪神が6月26日と云う風にである。

青木には一番早く大阪から電車が通じたので、そのニュースが当時は良く流された。
それにより、青木と云う街と駅が皆に知れ渡ったのである。

さて、青木の街のウオッチングであるが、東から西に通り抜けてみることにする。
東は深江という所と境界を接している。
深江は神戸市の一番東の街である。
深江の大阪側は芦屋市である。

深江駅で下車し、海側へ向かう。
海側へ通っている道は六甲山を越え有馬温泉へ至る最短コースで「魚(とと)屋道」と云われた。
幕府が定めた正規の有馬への物流のルートは、東の西宮・宝塚から船坂峠から有馬へ行く道であったが、かなり遠回りで時間が掛かる。
それを嫌った深江の魚の運び手達は六甲越えを常用したそうである。
本来は通ってくれるはずの西宮や生瀬の宿屋達が大坂奉行所に「抜け荷の道」であるとしばしば訴え、紛争は絶えなかったと云われている。

魚の運搬は時間が勝負である。
深江の魚は大正時代までこの道で有馬まで運ばれたのは当たり前と云えば当たり前と云える。

海側へ歩くと直ぐに国道43号線、阪神高速神戸線の所に至る。
この先は港の水路が広がっている。
その横、右手に大きな学校がある。
門前まで行って確かめる。
「神戸大学 海事科学部」である。
かつては「神戸商船大学」として知られていたところである。
国立大学の再編で神戸大学の1学部となってしまったようである。

大学の雰囲気を味わいに学内に入ってみる。
以前の商船大学であるから、何か変わるところがあるのか?と興味を持ったが、通路から見える校舎は普通の建物ばかりであった。
丁度昼であったので、学食に入り込み、安い食事を頂いたのであった。

大学を出て西に歩く。
大学の西に大きな工場がある。
SMW工業と云う会社の工場である。
航空機や特装車や水中ポンプなどの製造メーカーで街中や空港で良く見かける大型の機器を造っている。

大学と工場の境界の塀にはそれぞれ住所表示がされている。
大学のところは「深江南町5丁目」、工場のところは「青木1丁目」となっている。
青木と云う住所地は、神戸大学の西から始まると云うことが分かったのであった。

SMWの工場の西側にある国道43号線の陸橋を北へ渡り返す。
陸橋の直ぐ南側に酒造の蔵元がある。
「松竹梅」で有名なT酒造の白壁蔵である。

国道43号線を北へ渡るとそこには高層住宅が何本か建っている。
恐らくは震災後に建てられたものであろうと思われる。

その高層住宅の向こうに綺麗な建物の学校らしきが見えている。
早速行って見よう。
同じような大きな綺麗な校舎が2つ並んでいる。
一つは本庄小学校、も一つは本庄中学校である。
同じ形をしていて、全くうり2つと云っていいくらいである。
良く見ると窓の数が違っている。
両方とも震災で校舎が倒壊したため、お揃いの校舎が建てられたのであった。

西へ進む。
八坂神社がある。
その境内の隅に「本庄村道路元標」という石柱が建っている。
先程の本庄小中学校という名前にあるように、かつてはこの辺りは本庄村と云った。
青木、深江、本庄という現在の住所地が旧本庄村だったと云うことである。

青木駅の近くまで来ているはずなので、その方向に行って見る。
途中に鉄材で作られた火の見櫓のようなものがあったのも珍しい。
この火の見櫓の敷地内にあるビルの表に回ると、消防団分団の表示があった。
かつて使われていた火の見櫓なのであろう。

青木駅に到着した。
全面的に工事中である。
阪神電車の高架工事である。
この辺りは「青木6丁目」の住所表示がある。
駅の南側は大火災があったところである。
ビルの一階を商店街としている。
他にスーパーマーケットがあるが、大規模なものではなかった。

西に向かう。
住宅地の間を少し行くと川があり、行き止まりとなる。
広い道へ出てこの川「天上川」を渡る。
川を渡ると「魚崎南町」という住所地になる。
青木は既に通り過ぎてしまったのであった。

青木というところは、神戸大学キャンパスに少し侵蝕されてはいるが、ほぼ正方形を少し左に傾けたような形をしている。
今回のウオッチングは、その真ん中の部分の阪神電車の線路と国道43号線とに囲まれた、面積で云うと約1/4ぐらいのところを通り抜けたのであった。

南の国道43号線の向こうは広い地域があるが、住宅・マンションよりも主として工場地帯である。
また、サンシャインワーフ神戸と云うショッピングゾーンもあるが、また次の機会にして、今回はパスをした。

この深江や青木、即ちかつての本庄村は東の芦屋川と西の住吉川の作る扇状地に挟まれて凹んだ海岸線をしていて、遠浅な海域であり、漁業の街として栄えたところである。

かつては六甲山も最高峰も含めて本庄村が所有していた本庄山と云われる山であったが、神戸市の政策により買い上げられ、六甲山は現在、この地と関係が無くなっている。

青木と云う街名であるが、
ここの北の六甲山麓にある保久良(ほくら)神社の祭神・椎根津彦命(しいねつひこのみこと)がこの浜に青亀の背に乗って漂着したという伝承があり、それが青木(おおぎ)の地名の由来となっている。

この後は、更に西の魚崎の酒蔵郷まで歩いた。
酒蔵の間には、震災後に建てられた高層の県営住宅、民間マンションが並んでいる。
この地域も多大なる被害を受けたのだと云う実感が迫ってくるが、着実に復興が進んで来たことの実感も持てたのであった。

灘の酒の発祥で知られる「櫻正宗」の酒蔵、「菊正宗」で知られる酒蔵などを訪問して、少しのお土産を入手し、帰途についたのであった。

〔完〕