JR大阪駅の駅ビルの東側から大阪の街の中心を難波に向けて南下する御堂筋は良く知られているが、駅ビルの西側を南下する四ツ橋筋は若干知名度が低い。
今回はこの四ツ橋筋の西側にある靱の街を訪ねてみることにした。

靱はワインのコルク栓を頭を東に寝かせたような東西に細長い街である。
この街には靱公園という公園があって、街の面積の半分近くを占めている。
その靱公園も南北約150m×東西約800mの細長い公園である。

なぜこのような公園が出来たのか?
その経過はこうである。
太平洋戦争時の大阪大空襲で焼け野原となったこの辺りを、戦後、進駐してきた米軍が接収して飛行場とした。
その後の講和条約により飛行場は返還され、その跡地を大阪市が公園として整備したものである。
公園は飛行機の滑走路の跡地であるので、やむを得ず細長い公園となってしまっているのである。

前置きはこれくらいにして、早速、靭本町をウオッチングしてみることにする。

地下鉄四つ橋線本町駅で下車して、少し歩いて北上する。
四ツ橋筋と本町通りの交差点「信濃橋」から靱本町は始まる。
信濃橋には「洋画研究所跡」の石碑がある。
碑文に『大阪の近代洋画界の発展に大きな功績のあった信濃橋洋画研究所は、大正13年、小出楢重・国枝金三・鍋井克之らによってこの地に設立された』とあるが、余り馴染みは無い。

西方向へ本町通りを進む。
右手は靭本町、左手は西本町である。
少し歩くと、右手に「大塩平八郎終焉の地」の石盤が建てられている。
その碑文によると、
『大塩平八郎中斎は江戸時代大坂(東)町奉行所の与力で、陽明学者としても知られ、
・・・・・・・
天保8年2月19日飢饉にあえぐ無告の民を救い、政治腐敗の根源を断とうとして…決起した。
・・・・・・・
乱後、平八郎・格之助親子は、この地に隣接した靱油掛町の…宅に潜伏したが、幕吏の包囲のうちに自刃して果てた。
・・・・・・・』
とあり、感慨深い。

この大塩平八郎の乱の経緯については、拙作「街道いろは探歩」の「曽根崎通りの東西のつわもの」に書かせていただいているので、興味がおありの方はご覧いただきたい。

更に西へと進んで行く。
間もなく大きな道路と交差する。
「なにわ筋」である。
ここまでが靱本町1丁目である。
信号を渡って2丁目に入る。
道沿いはマンションやらオフィスビルなどが並ぶ余り変化のない街筋である。

程なく大きな通り「あみだ池筋」と交差する。
交差点名は「岡崎橋」、ここから3丁目である。
この辺りから、何かの警備であろうか警官の姿が見えるようになる。
何か警護すべきものがあるのであろう、構わず先に進む。

すぐに頭上に高速道路を伴った「新なにわ筋」に至る。
地下鉄駅への降り口もある。
駅名は「阿波座」、本町から阿波座へ、丁度この1駅分が靱本町の東西の長さである。

駅への降り口の辺りには幾つかの居酒屋やら食事処がある。
新なにわ筋の向こうには、靱本町3丁目の若干の部分と江之子島の「雑喉場(ざこば)魚市場跡」がある。
市場跡は前に訪ねたのでこれはパスである。
ここでUターンすることとし、今度は街中の小路を歩いてみよう。

ここにも警官が歩哨している。
いったい何を警備しているんだろう?
少し行くと、装甲車も置かれている。
何とここにあったのは中華人民共和国の領事館である。

写真を写していると警官が胡散臭そうに近寄ってきた。
「写真はご遠慮願います。領事館から云われているので…」
と云う。
「街角を見学してるんですよ。街の風景を写すのは問題ないでしょう…? 写されて嫌ならこの建物、どっかへ場所替えしたらいいんじゃないですか?」
これで有耶無耶に…。

「ところであなた方は何を警備してるんですか?」
と聞いて見た。
「領事館に悪いことをする日本人の不逞の輩をを取り締まってるんですよ。」
「ちょっと前、北京の大使館や日本の工場、スーパーなど、中国人にボコボコにやられましたよね。向こうの警察は守ってくれなかったじゃないですか? それでも警備するんですか?」
「上からの命令なんでね…」
「・・・・・」
「・・・・・」
「任務だからしようがないですね。ご苦労様です」
と、その場所を後にした。

東方向に歩いてい行く。
間もなく元の「あみだ池筋」に行き当たる。
その道路向かいは「靱公園」である。

横断歩道が見当たらないので、北の交差点まで行く。
もうこの交差点は京町堀と云う住所地である。

靱公園に入った辺りは遊歩道を伴った庭園である。
その向こうにはテニスコートが広がっている。
数えてみると15面、しかし誰もいない。
その向こうに大きな建物がある。
体育館と思ったが、立派なセンターコートであった。
たまに散歩している人に出会うだけで、静かな所である。

なにわ筋に出る前の右手に、「楠永大神・楠玉大神」と云う神社がある。
境内の大きな楠の木を祀っている神社である。
この楠の木、飛行場建設の際に邪魔なので切り倒すことを前提として設計図が描かれた。
工事に掛かったところ事故があまりにも多いので、これは楠神様の怒りであるとのことから神木として残されたと云うことである。

周辺に「永代浜の跡」と「靱海産物市場跡」と云う石碑が建てられている。
碑文での説明には、
『靱公園のこの付近一帯は江戸時代以来昆布、塩干魚、鰹節などの海産物の市場として靭の中心となしていた。これらの商人が荷揚げの便をよくするために寛永元年(1624年)海部堀 川を開削し、阿波堀川とこの川をつなぐ永代堀の屈折点を永代浜と称し、海産物の荷揚浜とし て賑わった』
と書かれている。
古地図を見てみると、江戸時代初期には既に靱の地名が使われている。

なにわ筋を渡り、公園の東部分に入って行く。
東の部分は市民が憩える花苑中心の綺麗な公園である。
真ん中あたりにある丘で仕切られていて、こちら側西側部分は季節にもなれば綺麗なバラが咲き誇るバラ園となるところである。
現在は花のない苗木ばかりで、その季節でないのが残念である。

バラ園の丘を越えると、今度は多目的運動広場がある。
北には4面ものテニスコートもある。
余程のテニス好きなのであろう…。
ここのコートはプレーヤーたちでうめられていた。

運動広場の右手・南側には桜の園、花見グループもいくつか座っている。
広場の左手・北側に10本ぐらいか寒緋桜が赤い花をつけている。
右側左側どちらの桜も早咲きである。
もう満開である。
少し早目(3月12日)の花見を楽しんだのであった。

寒緋桜の向うには、経済産業省管轄の「大阪科学技術センター」、それと展示館である「大阪科学技術館」がある。
この館の向こうは四ツ橋通りである。
ここまで来れば、出発点近くの信濃橋の北付近まで戻ってきたことになる。

四ツ橋通りの向こう側の阪神高速の高架道路まで、即ちかつての西横堀川までが靱本町である。
通りを渡って行ってみる。
北の角に「京町堀跡」の石碑がある。
かつて京都の伏見から移ってきた人たちが町域に西横堀川から分流する堀を開削したものであるが、洪水対策のため埋められたとある。

阪神高速の脇の靱本町は企業の事務所と幾つかの食事処が入り組んで配置されている。
レトロなビルも残っている。
その間を南へ下って本町筋に出て、靱本町のウオッチングは終了となった。

さて、靱と云う地名の由来はどうであろうか?
有力説は豊臣秀吉の時代まで遡る。

この辺りから東に、今で云う塩干物の問屋や仲買商の店が軒を連ねていて、魚市が開かれていた。
ある日、秀吉がそれを視察したことがある。
売り子達は通りの客に向って「何十文やすやす」「何百文やすやす」と威勢の良い売り声を浴びせ掛けていた。
秀吉が「先ほどから、やす!やす!と言っておるが、矢巣(やす)とは靱のことであろう?」 と、同伴している家来に駄洒落を言ったと云う。

当時、矢を入れて背中に背負う武具のことを靭、別名、矢を入れる巣「矢巣(やす)」とも言っていた。
秀吉は駄洒落で言ったのだが、それを耳に挟んだ町人たちは、
「太閤殿下より「靭」の町名を賜った。大変名誉なことである」
と、以来、市場の辺りを靱(うつぼ)と呼ぶことにしたそうである。

秀吉の時代の市場はもう少し東の伏見町辺りにあった。
江戸時代に現在の場所に移ったが、地名も一緒に移ったと云うことである。

〔完〕