年が明け、七草粥も過ぎ、初詣の客で賑わった京の街にも、静けさが訪れたかと思いきや、ここ祇園の南の宮川町辺りは、にわかに人出が多くなる。

関西の人には馴染みの「えべっさん」である。
京都五山の建仁寺の門前の通り、それでなくても広くない大和大路の両側に、屋台の出店が四条通りからゑびす神社を過ぎるまで、ぎっしりと並び、お祭りを盛り上げる。

ここ京都のゑびす神社は、日本三大えびすの一つで、兵庫の西宮えびす、大阪の今宮えびすと肩をならべてはいるが、境内だけはあまりにも狭い。

戎の神様の「御札」は、「商売繁盛で、笹もって来い」と云われる福笹、笹は古来京都では京都弁で、お神酒(おみき)のことを「おササ」と呼んでおり、それに同じ音をもつ「笹」を「吉兆のお笹」としたのが、400年前のこと、このゑびす神社の18代宮司の中川数馬義幸氏であったと云う。

笹に吉兆の習わしはここ京都のゑびす神社から始まったものと云われる。
笹は常に青々として、真っ直ぐに伸びて折れないことから、縁起の良い植物として家運隆昌や商売繁盛の象徴となったと云われる。

また、室町時代末期に日本で最初の七福神信仰が京都で始まったとも…。
当時、応仁の乱で荒廃した京都で、幸を願う町衆の気持ちが、福を呼ぶ神への信仰が始まり、その後江戸時代に七福神参りが江戸でも流行したと云う。

このゑびす神社の創建は栄西禅師、建仁2年(1202)であり、その云われは、
『栄西禅師が中国宋より帰国のとき、船中にわかに波風荒く吹きて、船中の人々驚き騒ぐ折ふし、栄西禅師少しも騒がず、海上に向いて拝し給えば、いずくともなく「ゑびす神体」あらわれ給い、船の軸先に立ち給うと、たちまち波風鎮まりければ、それより御影を写し留めて、帰国後、建仁寺の鎮守とした…』
とのことである。

このゑびす神社、かつては建仁寺の境内にあったが、明治の廃仏毀釈により建仁寺から分離されたということである。

栄西禅師は岡山の加陽氏の出身で、吉備津宮の神官の家系でであり、日本の古来の神も厚く敬われており、ゑびす神は大国主命の子「八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)」と同一の神様と云われる。
大国主命の農業の神に対して事代主命は漁業の神であるが、中世以降、商売繁盛の神として信仰されて来たのである。

ここで、禅宗の祖、栄西禅師について触れる。

その前に、禅のこと…、
禅とは仏教における瞑想の技法であり、釈迦の時代から重要な修行法とされていた。
釈迦が菩提樹の下で瞑想をして悟りに到ったのはよく知られているが、この禅を行うことをその中核に据えたのが禅宗であり、その歴史は6世紀にインドから中国へやってきた達磨大師に始まると云われる。

その後、6代目の慧能の弟子の行思の系統から曹洞宗が、同じ弟子の懐譲の系統からやがて臨済宗が生まれ、それぞれ入宋した道元禅師、栄西禅師が日本に伝えたと云われている。

禅宗はこの臨済宗・曹洞宗の他に、江戸時代にインゲン豆で知られる隠元禅師が伝えた黄檗宗、そして虚無僧で知られる普化宗があるが、黄檗と普化はどちらも臨済宗系とされている。

栄西は岡山を出て、14歳で比叡山に上がり、その後2度にわたって中国に留学、黄龍派の臨済を学んだ。
帰国後栄西は最初、博多の聖福寺を拠点(1195年)として活動を始めた。
これは当時京都では天台宗・真言宗の2大仏教の勢力が強く、この新しい仏教を奉じた活動ができなかったことがその理由である。

そこである程度の浸透を得た後、鎌倉に行き幕府に働きかけ、北条政子の援助で寿福寺を建てることに成功したのであった。

そして更に幕府の庇護のもとでようやく京都に建仁寺を建て、以後栄西は京都と鎌倉を頻繁に往復して精力的な活動を続けた。
この栄西の活動により、仏教には天台・真言以外にも色々あるのだということが人々に認識され、以後の道元の曹洞宗、法然の浄土宗、親鸞の本願寺らの活動を支える下地が形成されることになったと云われる。

栄西禅師は争いごとを良しとせず、建仁寺も真言、天台それに臨済の併立寺院として朝廷にも信任厚く、多くの学者を輩出したという。
当然、境内には自らの守り神ゑびす神社も鎮座させ、神仏信仰に抜かり無しであった

栄西禅師で忘れてならないのはお茶であり、茶の祖とも云われる。

栄西が中国から茶種を持ち帰って、日本において茶の栽培を奨励し、喫茶の法を普及した。
それ以前、我が国に茶樹がなかったわけでも、喫茶の風がなかったわけでもない。
我が国に茶の種が入ったのは、古く奈良時代と思われる。
そして平安時代には、貴族や僧侶の上流社会の間に喫茶の風が愛用されていた。

栄西が少年時代を過ごされた叡山にも、伝教大師以来、古くから茶との結びつきがあった。
この伝統の影響を受けて栄西は、茶種の招来、喫茶の奨励、いままでごく一部の上流社会だけに限られていた茶を、広く一般社会にまで拡大させたと云うことである。

喫茶の法の普及と禅宗の伝来とは深い関係がある。
禅宗僧侶の集団修道生活の規則はすでに中国において唐代に確立していた。
これを「清規」と云う。
「清規」とは清浄なる衆僧の規則という意味で、その清規の中に茶礼・点茶・煎茶や茶についての儀式が多くある。
特に座禅の際行う茶礼は、眠気覚ましには特効薬的意味もあって、修道にはなくてはならない行事であった。

また座禅修行者に限らず、一般の人に対して茶は保健上から良薬であると、茶徳を讃え『喫茶養生記』を著わした。
その巻頭言は「茶は養生の仙薬・延齢の妙術である」であり、喫茶の法、茶樹の栽培、薬効等茶に関する茶の総合的著述になっている。

栄西は1191年、肥前佐賀脊振山の中腹にある霊仙寺に、宋から持ち帰った茶の種を蒔いたのが茶の栽培の最初とされる。
その茶が次に京の高山寺の明恵上人に伝え栽培され、宇治茶へ繋がって行ったのである。
高山寺には種を入れていたつぼ「漢(あや)の柿壷」が残っていると云う。

栄西禅師の「大いなる哉 心や」という一文がある。

大なる哉(かな) 心(しん)や
天の高きは極む可(べ)からず、しかも心は天の上に出づ
地の厚きは測る可からず、しかも心は地の下に出づ
日月の光はこゆ可からず、しかも心は、日月光明の表に出づ
大千沙界(だいせんしゃかい)は窮むべからず、しかも心は大千沙界の
外に出づ
それ太虚(たいこ)か、それ元気か、心は則ち太虚を包んで、元気を
孕(はら)むものなり

天地は我れを待って覆載(ふうさい)し
日月は我れを待って運行し
四時(しいじ)は我れを待って変化し
万物は我れを待って発生す
大いなる哉(かな) 心や

栄西の「興禅護国論」の序の中の最後の段落である。
中国から帰り禅を広めようとしたが、延暦寺の反発を買ったと云う。
その時に他宗派を否定するものではないと執筆したのが、この「興禅護国論」である。

この一文に元臨済宗妙心寺派管長山田無文老師が『和願』で解説している。
『心はよく鏡に例えられますが、鏡は、小さな鏡であっても、富士山も入れば太平洋も入る。なぜ入るか。鏡の中は無だからです。世界中がことごとく自分の心の中へ入ってしまって、狭さを感じない。心は、全宇宙を包容してなお余裕のある大きなものである。わが心はそういう偉大なるものです。』
と…。

八方美人で世渡り上手な栄西禅師、とやかくは云われるが、とにもかくにも偉大な禅師、宗教家であった。
今までの公家文化から、武家文化へと変革を遂げて行った時代の、確かな礎を築いたことは間違いないと思われる。

それにしても、栄西禅師が帰朝の折、荒れる海上にゑびす神が現われず、船が転覆していたら、日本の歴史・文化は大きく変わっていたに違いない。

「荒れる海  祈りかなえる  ゑびす神 歴史の妙を  守りしたもう」

〔ゑの段 完〕