国の名勝である瑠璃渓谷は京都丹波の亀岡の中心部の西、丹波篠山との中間あたりにある。
それほど深い山の中ではないが、鬱蒼とした樹林の中を清流が流れている。
僅か4km程度の短い清流であるが、四季折々ハイカーや子供達の遠足の目を楽しませてくれる。

この瑠璃渓谷は江戸時代頃から、領主や領民の憩いの場であったそうであるが、明治の時代になって、当時の船井郡の郡長が清流に陽があたると瑠璃色に輝くと云うことから、瑠璃渓谷と命名した云う。

瑠璃渓谷は園部川に合流し、園部川は大堰川、桂川に合流して、最後は淀川、大阪湾に流れ込む。丹波発大阪行きの水系である。

瑠璃渓谷を上流から尋ねてみる。

水源は、山上の人造湖「通天湖」。標高約500m。
堰堤から流れ落ちる滝は、まさに白糸を無数に並べたような大カーテン、大いに見ごたえがある。

瑠璃渓には、12ヶ所の名勝「るり渓12勝」がある。
この12勝を順番に辿りながら、下って行くことになる。
水流と岩と緑の織りなすハーモニーが見られるが、お見せできないのは残念である。

これら名勝の中でも、目を見張るのは、中間辺りの「双龍淵」と最後に現われる「鳴瀑」であろう。

渓流を下ること約一時間。山歩きは終了となる。

この渓流は、この後、園部(現、南丹市)の平野を潤おしながら、そして園部の城下を流れて過ぎ、桂川に注ぐことになる。

桂川は京都市の北部の佐々里峠という所に端を発し、広河原、花脊、京北町を経由して、一旦、日吉町の世木ダム、日吉ダムで堰止められた後、園部地区へ、桂川として流入する。
八木という所で、園部川と合流して大堰川と名を変え、亀岡を南流した後、保津川と名を変え、嵐山の渡月橋でまた顔を出す。そこでまた桂川となる。
極めて多彩で数奇な川である。

京北町辺りまでの上流を上桂川と云い、あまご釣りのポイントとして、釣り人には愛されている。

「保津川」の名は、丹波国一之宮である出雲大神宮(亀岡市)に祀られている三穂津姫命の名前に由来すると云われている。

この桂川、かつては長岡京や平安京造営、さらに大坂城や伏見城の築城に際して、丹波山地の木材を都に運ぶなど、丹波と山城、摂津の間の輸送に重要な役割を果たした。

この桂川には、古くから、2組の人たちが大きく係わって来た。

1組は半島新羅からやって来て京都開拓の祖となった、あの秦氏である。
秦氏は桂川の流域(葛野郡)を主な住み家とした。
氾濫する桂川に堤防を設けたり、京都鎮護のための松尾大社・伏見大社を創建したり、あまりにもよく知られているので、ここでは省略する。

もう1組は戦国時代生まれの京の豪商、角倉了以・素庵父子である。
角倉了以の生まれは1554年、織田信長が20才の時に生まれている。
角倉家は元々は室町幕府のお抱え医者の家系、先祖は宇多源氏・近江の佐々木氏の子孫、吉田姓であったと云われる。
医業で財をなし、嵯峨で土倉(金融業)を営むようになり、天下の豪商となった。

角倉という姓は、経営していた土倉の名前の一つから取ったと云われる。

京都の繁華街、木屋町に流れる高瀬川は良く御存じであろうが、これもは了以の開削した水運の川である。

彼は岡山県の和気川に、浅瀬でも航行出来る底の浅い舟があることを知り、まず保津川に導入したそうである。
その効果を見て、底の浅い舟「高瀬舟」で行き来できるようにと、水路を開削し、高瀬川と名付けたのであった。

そう云えば、岡山の菓子に、高瀬舟と云う、舟の形をした一口羊羹があることを思い出した。結構美味いものである。
高瀬舟、高瀬川のルーツは岡山であると、改めて認識した。

話を本題に戻す。

角倉了以とその子、素庵は私財を投じて桂川の大改修を行った。
江戸時代初期のことである。
それも先に述べた上流の日吉ダム辺りから嵐山までの大改修であった。

単に丹波からの水運の便だけを考えるなら中流辺りまでの開削で十分であり、そこまでは不要と思われるのであるが…。
大きな疑問が残る。

これに、明快な仮説・解答をした人物がいる。
亀岡市名誉市民、元大阪女子大学長、上田正昭氏である。

彼の弁を借りれば・・、
『これは私の仮説ですが、京都の北部を日本海に向かって流れる由良川と保津川とをつなごう、という構想を持っていたんじゃないか、と思うのです。保津川を行ける所までは舟で物資を運び、それより上流は陸路を馬で運ぶ。

まさに、日本海と大阪湾を結ぶ、という非常にスケールの大きな構想で着手した、というように考えるべきなんですね。

角倉了以・素庵親子が、日本海の海運も視野に入れて保津川の開削を行った、これは非常に大事なことだと思いますね。

当時、北国からの物資は、北前船で下関を回って大坂へ入って、そして京都にやってくる、それは物凄い遠回りしてくる訳ですわ。それを、大幅に短縮する、今で言えば物流の大変革ですよね。そういう大きな視野を、彼ら親子は
持っていたと思いますね・・・。』

しかし、この開削工事は難航を極め、多くの犠牲者を出したと云う。
そこで了以父子は嵐山に大悲閣千光寺を建立し、その菩提を弔ったと云われる。

余談であるが、この千光寺、尾道にある有名な千光寺の住職によると、繋がりがあり、時々参詣している、とのことであった。

保津川と云えば、保津川下りという観光イベントがある。
この舟遊びを最初に行ったのは、素庵の先生、藤原惺窩を舟に乗せて保津川を最初に下ったのが始まりと云われている。
1607年のことと云われている。

『保津川下りは、亀岡から嵐山までの約16kmの渓流を約2時間で下るスリル満点の舟下りです。曲がりくねった狭い川筋は、激流岩をかんで舟いっぱいにしぶきの花を散らし、あるいは神秘をたたえた深淵に、かいの音がこだまして、夏はかじかの涼やかな合唱が聞かれます。 』
とは、観光協会のパンフレットにある。

もう江戸時代には保津川下りの観光案内が一杯出ていたそうである。
多分、漁師達が金儲けにやっていたと思われるが、それをまとめた角倉家は、通行料を頂くということで、ビジネスとして観光が成り立っていたと云われている。

やはり商売人は目の付けどころが違う、というのが実感である。

丹波の山の佐々里峠や瑠璃渓谷に端を発する桂川、水運の便を得て、観光も得て、了以・素庵父子のその功績は大きいものと考えられる。

尚、余談であるが、京都では明治の時代に、琵琶湖疏水を開削した田邉朔郎と共に、了以は「水運の父」と呼ばれている。

この桂川の他に、鞍馬・貴船の奥に端を発する鴨川、琵琶湖を水源とする宇治川、そして伊賀の山地に端を発する木津川、これらの川が、京の南西の出口、石清水八幡宮の眼下で合流し、神の霊験新たかな下、加護も得て淀川から大阪湾、淡路、讃岐、伊予から九州まで繋がっている。

まさに水の歴史街道であると思われる。

夏になれば、保津川や高瀬川・鴨川で涼を求めて見るのは、如何だろうか…。

「保津峡の 急流しぶき 青葉降る  水面に楽し 皆の笑顔や」

 

〔完〕