「右大臣道真、貴殿を大宰権帥(だざいのごんのそち)に任じる
早々に赴任されよ」
とうとう醍醐天皇から、菅原道真に転勤勅命が下った。

道真は、
「このことは、宇多院陛下も御承知なりや?」
と口から出すのが背一杯だった。
実はこの異動、醍醐天皇は宇多上皇には内緒で進めていたのである。

傍らで控えていた左大臣藤原時平、心の中では、
「これで、藤原の権力が邪魔されずに済んだ」
と、俯いたままで、笑いが止まらなかった。

「上皇が御存じであろうが無かろうが、関係はない。右大臣は娘婿、わが弟、斉世(ときよ)親王を皇位につかせようとし、朕をないがしろにした。その罪は本来は死罪であるが、そこを譲って大宰府の勤番とした。大宰権帥、つまり九州総督府の代理長官である。それだけでも有難いと思うが良かろうぞ。しかと申し渡したぞ」

この背景はこうである。
少し前のこと…、
朝廷の要職の常連、藤原氏にはこの時、政治ができるようなまともな人材がいなかった。
そこで宇多天皇はこれ幸いに、天皇が直接政治をする親政を目指して、学問、政治何でもこいの学者の家系の道真を重用したのであった。
道真は若くして官吏登用試験に合格した何年に一人出るか出ないかの逸材であった。

そして更に息子を醍醐天皇にし、自らは上皇となり、左大臣には藤原時平を起用した。
藤原氏の起用は今までの慣習を壊したくなかっただけのことである。
そして右大臣には道真をという体制を敷いたのであった。

ここで余談、
この道真の話は西暦900年の少し前ごろの話である。
この100年前に、桓武天皇は京都に都を移したことは、良く知られている。
その狙いは奈良の平城京にてはびこり過ぎた公家(藤原氏)と大寺院の影響から逃れるためであった。
そのため都の造営資金を秦氏を始めとする京都の帰化人豪族達に頼って来たのであったが…。

しかし、藤原氏は付いてきてしまった。
もうこの時点では、天皇家と藤原家は姻戚関係で、複雑にからんでいたので、止むを得ないことではあったが…。

道真は官吏になった頃、菅原家が代々係わって来た遣唐使を廃止した。
当時の唐は「黄巣(こうそう)の乱」で国内が乱れており、日本の国家的事業、遣唐使を派遣する意味がなくなっていることを奏上して、それが受け入れられた実績も持っていた。

また道真は朝廷の要職についてからは、朝廷に権限の全てを集中する中央集権制の構図を作り、天皇の補佐として親政を目指して来たのであった。

藤原家はここに来て完全に敗北していたのであるが、そこは長く生きてきた名家、生き延びる術は心得ている。
頭脳では勝てないが、策略では負けない。
一計を案じた。
それは先ほどの、娘婿を天皇にしようとしていると云う筋書を作って、誠しやかに帝に奏上したのであった。

「物事をわきまえている道真は、そんなことをする筈がない」
と天皇も嘘だと分かっていたが、藤原が言う以上取り上げないと、ことがややこしくなる。
「藤原氏と事を構えることになると面倒なことになるなァ」
という気持ちの方が優先した。

とにもかくにも、道真は九州に行くことになった。
その時の道真は55歳、西暦901年、1月25日のことであった。
「もう、都には帰って来れないなァ…」
と云うのが実感であった。
関係ないのに、道真の4人の息子にも、流罪の勅命が出たのであった。
こうしておかないと、何時復讐劇が起こるか分からないのが、理由である。

道真が大切に育てていた自邸の白梅に別れを告げ、歌を詠んだと云う
『東風吹かば にほひおこせよ梅の花
あるじなしとて 春な忘れそ』
と言い聞かせた。

途中、道真が在原業平らと詩歌管弦を楽しんだ地、長岡の八条池、難波の曽根崎の辺りを通って、難波津から船に乗り、九州の地に向かった。
『露と散る 涙に袖は朽ちにけり
都のことを 想い出づれば』
この歌が、大阪曾根崎にある露天神(お初天神)の名の由来になっている。

大宰府では日常政務を行いながら過ごした。
しかしその生活は張り合いのないものであったことは、容易に推察できる。
都の話が伝わってくるたびに、都の乱れようが心配となった。
また流罪となった息子たちのことも頭から離れなかった。

日々、天に祈りをささげる他、心の満足が得られることは無かったと云う。
道真が登って祈りを捧げた山がある。
その山は現在、天拝山と名付けられている。

元来身体が弱い道真、1年たった頃から寝たり起きたりの状態となった。
回復もおぼつかなくなったころ、道真は側近に遺言をした。
「遺骸は牛に引かせよ。そして牛の行くところにとどめよ」

道真は903年の2月25日に病没した。
奇しくも、誕生日と同じ2月25日である。
道真は丁度2年間、大宰府にいたことになる。

遺骸は遺言通り牛に引かせた。
牛は黙々と東に歩いて、あるところで動かなくなったと云う。
そこを道真公の墓所と定め、小さな祠を建てた。
現在の大宰府天満宮の場所である。

この話はこれで終わらない。

この日、道真の怨霊は叡山の僧、尊意の所に現れ、
「我は、帝釈天の許しを得た。帝や禁裏に復讐する」
と語ったと云う。

その後、都では異変が相次いだと云う。

道真追放の立役者、藤原時平が39歳の若さで死去、右大臣源光も死去。
更に道真の左遷に反対する宇多上皇の御所入りを邪魔した藤原菅根も変死。
更に更に時平の妹穏子と醍醐天皇の間に生まれた皇太子保明親王が21歳で死去。
追い討ちを掛けるように、その保明親王と時平の娘との間に生まれた幼い慶頼王も死去。
そして極めつけは、御所清涼殿に落雷があり、大納言藤原清貫をはじめ何人もの殿上人と女官が雷に撃たれて死亡。
醍醐天皇はそのショックで病に倒れ、数ヵ月後に崩御。

朝廷も内裏も、市中の人も皆、
「道真公は雷神になられ、復讐を果たした」
と、言い合った。

祟りを恐れた朝廷では、道真を右大臣に復し正二位を贈り、更には正一位を贈り左大臣太政大臣として名誉回復を図ったのであった。
その背景には道真を讒言した時平の早逝により、その子孫が振るわず、宇多天皇の側近で道真にも好意的だった時平の弟の忠平が藤原氏の嫡流となったと云うこともある。
(賢明な読者の方々には、これらの怨念の出来事は、忠平の陰謀、藤原氏の内部争い?と、推察されようが、それは御想像にお任せする)

清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。
火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。
時の一条天皇より「北野天満宮天神」の称も贈られた。

それから後、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。
こうして天神信仰が全国に広まり、各所に天神社、天満宮が勧請されたのであった。

しかし年月が経てば災害の記憶も薄れて行き、道真が優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになり、現在に至っている。

ここから、本題の湯島天神へと行こう。
この神社の前身は雄略天皇の450年に創建された最も古い神社の一つである。
南北朝の時代に町人等の強い願いによって、天満宮が勧請されたと云う。
徳川の時代になって徳川家から崇敬を受け、学者・文人なども数多く参拝するようになった。
また享保年間には富籤(とみくじ)の興行が行われ、江戸3大富籤としても有名になった。
現在は受験生の参拝を集め、境内は祈願の絵馬が所狭しと掛けられている。

余談であるが、平将門という武将がいた。
自ら皇帝「新皇」と名乗り、関東一円で暴れ回った武将であるが、彼の怨念も凄まじいものがあったそうである。

話によると、東京の大手町にある将門の首塚は、戦後GHQが撤去しようとしたが、関係者が原因不明の病気に倒れて行ったので、そのままにされているということである。
その将門 湯島天神と一直線の神田明神に祀られており、南の神田明神を拝むことが、その奥の道真を拝むことにもなる、とされている。

「将門記」には、将門を新皇に任じたのは道真とも書かれているが、筆者はこれは作りごとであると考えている。
しかしながら、何らかの怨念繋がりがあるのかも知れない。

それよりも、湯島天神―北野天満宮―大宰府天満宮、この3天神社、一直線に、そして等間隔に並んでいるのは、単なる偶然であろうか?
道真の霊力が生きている証拠であるようにも感じてならない。

 

「白梅に 願いを託し 春間近」

〔ゆノ段 完〕