戦国時代に摂津国伊丹に有岡城を構え、国を統治した荒木村重と云う武将は、勇猛であったが、後半生は謎に包まれて、良く分かっていないところがある。

おおむねこの頃の畿内の武将たちは、鎌倉・室町からの伝統で、強いものに味方するのが原則であった。
畿内の武家の集まりは信長軍団のような常備軍隊ではなく、あくまでも地方豪族の寄り合いである。
足利が来れば足利、信長が来て、勢いありと判断すれば味方になり、衰えたと思えば、敵にもなる。
ころころ変わるのが普通であった。
その代表例は何度も信長に反発した大和国主の松永弾正である。
荒木村重も信長に反旗を翻したが、事情は全く違う。

摂津の国は古くから栄えた大きな国である。
京都の西南方向に接している。
北は山紫水明の地で、伊丹・池田は近代の酒造りが始まった所である。
西は瀬戸内海の海路の要衝、神戸や西宮、尼崎の港が栄える。
南は、堺に接し、ここも港町、住吉大社と云う海神が鎮座する。
しかし石山本願寺が難波の港の東にあり、紛争の種となっているのは少し前の時代とは、大きく違っているところでもある。

京から戦略的に西を眺めた場合、中国九州に繋がる摂津の去就が重要であった。
京から西に向かう時は、陸路は西国街道、水路は淀川、交通の便は良いが、すべてこの摂津の国を通らなければならない。

今回は荒木村重が戦いを余儀なくされたこの西国街道の話である。
西国街道の伊丹から西宮にかけて、大きな寺社がある。
伊丹には真言宗昆陽(こや)寺、西宮には阪神タイガース祈願社廣田神社、西宮えびす神社、そして今回巡礼の門戸厄神(もんどやくじん)がある。
これらを背景に村重を見てみることにする。

村重の家は、祖父の時代に丹波の国から摂津の国に移ってきた。
父親は荒木信濃守義村と云って、池田氏の家臣であった。
義村夫婦は子宝に恵まれなかったため、同じ摂津の中山観音に参籠したという。
その甲斐あって、大きな赤ん坊が生まれたのが村重であった。
村重は少年の頃から、他の子供よりも力持ちで、弓馬の鍛錬を好み、槍太刀の勝負が好きであり、そして大食いでもあったと云う。

ある日、親の義村が村重に、
「お前は食うことにかけては常人を越えているが、そんなもん役に立つのか?」
と問うたところ、村重少年は、
「何と言われる。武将たるもの筋力が大事でござる。槍を突き太刀を打つにも、人に過ぎる兵具を持たねば、勝利も無い」
と豪語したと云う。
村重の怪力は誰もが認めるところであったのである。

時が経って、丁度信長が将軍足利義昭を奉じて入京してきた頃のこと、摂津の国もあわただしくなった。
信長は三好三人衆を退け、池田氏、伊丹氏、それに幕臣和田氏を守護に命じ、岐阜に帰って行ったと云う。
それを待っていた三好三人衆、以前のように支配しようとしたが、そうはいかない。
既に池田氏の中で頭目をあらわしていた荒木村重は高山右近や中川清秀を従え、三好三人衆はおろか、池田をも追放した。
そして和田、伊丹をも滅ぼし、敵はいなくなった。
摂津の国主になってしまったのである。
国盗り物語、摂津版である。

信長は機嫌が悪い、悪い筈である。
信長が命じた守護職を滅ぼした輩が摂津の国主として、城まで構えているのである。

次の上洛の時、信長は村重に謁見に来るようにと命じた。
村重と云う男を試し、家来として妥当かどうかの見極めである。
近江・山城の国境の峠まで来させた。

謁見の席、信長は前に置いていた饅頭を3個ばかり太刀に突き刺し、村重の前に突き付けたと云う。
回りにいた者は、「これは…」と思い、震え上がったと云う。
しかし村重は動ぜず、それを口の中に入れたと云う。

信長の疑いは晴れた。
「村重、摂津は京に次ぐ大事なところじゃ! しっかり守ってくれよなァ」
とすっかり上機嫌になったと云う。

伊丹城を改修して有岡城と名付け、13郡にそれぞれ、寄騎を付けてもらい、信長の後ろ盾にて、三十五万石の大太守になったのであった。
村重にとってはわずか四年間の短い間の出来事であった。

天正6年(本能寺の4年前)、毛利、上杉、本願寺との戦いの最中ではあったが、安土で年賀の会が開かれ、重臣が呼ばれた。
もちろん村重も含まれていた。
このころが、村重の絶頂期であった。

しかしこのようなスピード出世を妬むものが必ずいる。
その年の秋ぐらいから村重が逆心を持っているとの噂が流れ始めた。

村重のところに謀反の事実を確かめにきた信長の使いに、
「謀反の気はない」
と答えていると云う。
「それなら母上を人質にして安土に申し開きに来られよ」
と言われ、安土に向かおうとしたと云う。

安土に行く途中、中川清秀のいる茨木城に立ち寄った。
中川から、
「今から言っても切腹させられるだけで犬死にである」
「そんなことはなかろう?」
信長を疑ってはいない。
あくまでも安土に向かおうとした。

そこに追い打ちをかけるように光秀の使者を騙る何者かから早馬が到着した。
「信長様は大変なお怒りで、村重陰謀は明白と決められた。明日にでも参着あれば取り押さえ処分せよと言われている」
と伝えてきた。
光秀は村重の嫡男村次の岳父であったため、村重はその言葉を信じた。
そして伊丹に戻ること、籠城することにしたという。

しかしこの時は信長はまだ村重を思いとどまらせようとしていたのは真実であろう。
その証拠にこの後も秀吉の配下、黒田官兵衛を説得に行かせている。

まんまと嵌められたのであるが、この時には分からない。
強大な村重勢力が京の近くにいると邪魔になる人達が仕組んだのであろうか?
第三次信長包囲網がその準備を着々としているような匂いがする。

ともあれ村重は城に帰り、籠城止むなしということになったのである

ここで村重の性格に付いて少し触れる。
人をあまり疑うことをしないし謀略も用いない。
そして剛腕の武将である故か、弱い者には優しい。
その証拠に攻め落とした城の城主は殺さず解放する。
預かっている人質は相手が謀反しても帰してやる。
このような性格がこの時代は大いに邪魔してると思われるが仕方がない。

この性格を裏付けるかのような書物が、近年、発見されたという。
その書、前野家文書「武功夜話」によると、
『村重は実直にして風雅の心ある人』
『荒木は実心あり』
『実直にして巧偽をつくらず』
と書かれていると云う。

さて、戦いに戻る。
伊丹有岡城内には、一万5千騎を配し、籠城した。
右近の高槻城は三千、清秀の茨木城では三千五百、それに本願寺がある。
尼崎や神戸花隈城も鉄壁の守りを敷いた。
ちょっとやそっとでは、落ちない勢力である。
村重は「来るなら来い」と言う心境であったが、しかし本心は、
「何で信長と闘うことに…」
という複雑さもあった。

秀吉からの説得使、黒田官兵衛がやって来た。
城内で会談とはなったが、今更、解決策があるわけでもない。
官兵衛も会談不調では、秀吉の所におめおめと帰れるはずもない。
そのまま城内に居ついた。

官兵衛への密命は、
『一は翻意を誘うこと、それが不可能ならば、村重を城から出さないこと』
『間違っても、本願寺に来させないようにすること』
『そのため、城にずっと張り付くこと』
であった。

戦いの初期で高槻と茨木が諜落されたのが、大きな痛手ではあった。
高槻はキリシタンを殺害すると云う脅しに屈し、茨木は清秀の息子と信長の娘を結ばせると云う甘い言葉に屈したのであった、
しかし戦いは一年近くも続いた。

信長軍の大将は滝川一益、信長軍の常道として付近の大寺社を焼いた。
伊丹の昆陽寺、西宮の廣田神社、そして門戸厄神、その他である。
なぜ焼くのか? それは、籠城軍の出城としての堡塁になっても困るし、援軍の橋頭堡になっても困るからである。

門戸厄神の厄神明王は、弘法大師が彫っただけあって、火災に遭っても焼けずに、すくっと立っていたと云われる。

戦いの大勢が決したのは、上﨟塚砦の守将が信長軍に寝返ったからである。
信長軍を城内に誘い入れた。
壮絶な戦いが演じられたのであった。
守将、荒木久左衛門は止むなく開城を決意した。

この時、村重は尼崎城にいた。
毛利水軍の最前線である。
10日前に来ていた。
毛利の水軍と会談を重ねていたが、毛利は本願寺の戦いにかかりっきりで、それどころでは無かったことが分かった。

本願寺にいる雑賀にも援軍を頼んだ手紙が残っている。
結果はこちらも同じであった。

村重はここにきて失敗したと思った。
信長に追い詰められ、籠城と言う作戦を選んだことが間違いだった。
同じ戦をするなら、本願寺を助ける戦をすれば良かった。
信長から自分を守ることだけを考えていた。

信長が最も恐れていたのはそれだった。
村重を封じ込めるに至らず、野放ししていたら、本願寺は危なかった。
だから何度も何度も翻意の使者を送り、釘付けにしたのであった。

信長の方が何枚も何枚もうわてであった。
それに気付いた時にはもう遅かった。
戦には情報収集や戦略立案や武器調達や要員確保、みんな大事であるが、急成長した故、そういう人材が回りには居なかった。
黒田官兵衛のような軍師がいたら、こんなことにならなかったのにと思った。

一人で何もかもやろうと云うのは到底無理だったと云うことを、ここにきて悟ったのであった。

この時、村重は人生の目標と云うものを何もかも失った。
有岡城守将の久左衛門が来た。
「信長は尼崎城、花隈城を明け渡せば助けると言っている」
と言ってきたが、そんなことはもうどうでも良かった。

その後、毛利の庇護を得て尾道の西郷寺で、道糞と名乗り、茶の道に勤しんだという。
道糞とは、道に転がっている糞(くそ)のようなものである、と名付けた。
戦のことは何も語らなかったのは云うまでもない

信長の死はこの尾道で聞いた。
死後、秀吉のお伽衆として召抱えられ、号も道薫と変え、堺に住んだ。
村重は信長が亡くなって、その四年後に亡くなったと云う。

利休の高弟、七哲の一人と言われるのは、本意であろうか?

「信じるも 渦に呑まれて 消えてゆく
葦の浮き船 行く末哀し」

〔もノ段 完〕