京の町の東側を北から南に貫き、春は桜、夏は川床と、風光明媚な鴨川は、今でこそ、土手が整備され、堰も多数設けられ、カップル始め市民の憩いの場となっているが、かつては、権勢を誇った白河法皇でさえ、
「朕の思いのままにならないもの、それは賀茂川の水、双六のサイコロ、そして比叡山の山法師(僧兵)」
と嘆いたという逸話がある如く、大変な暴れ川であって、平安京も何度も何度も水害にあったと云われている。

それもその筈である。
京の町は南北10kmあるかないかの細長い町であるが、その南北の高低差は100mもある。
鴨川は北山の奥から雨水を集め、上賀茂神社のあたりの市街地になった所から、一気に100mも下り降りて来るので、当然と言えば当然である。

当時は川幅は極めて広かった。
現在の繁華街、河原町通りはその名の通り鴨川の河原であった。
川の東岸はどれくらいあったか分からないが、人家は無く寺社があったのみで、ただっ広かったようである。

後世、出雲阿国が歌舞伎小屋を作って、多くの見物人が集まったとか、死刑の執行場所であったとか、多目的に利用されてきたイベント広場に相応しい、なるほどの十分な川幅、河川敷があったと考えられる。

しかしそんなに広くても洪水は起きる。

一度、洪水が起きれば、家は流される、疫病がはやる、法皇のみならず京の町人にとっては大変な恐怖であったに違いない。

京の人々は当時の五条の中州に陰陽師安倍晴明が建てた法城寺(文字を分解すると、水が去る、土が成る)をパワースポットとして信仰して、洪水からの解き放ちを祈っていたと云う。

鎌倉時代初期、1228年8月、猛烈な台風の降雨で鴨川が氾濫し、朝廷から洪水対策を担当する防鴨河使(ぼうかし)に任じられていた勢多判官・中原為兼(せたのはんがん・なかはらためかね)が、四条河原に祀られていた地蔵尊に、お告げによって止雨を祈願したところ、
雨が止み洪水も治まったと云う。

そこで、この霊験あらたかな地蔵尊をお祀りし、中原為兼の名字に人と水を添えて、「仲源寺」とした寺が建立されたと云う。
通称「雨止(あめやみ)地蔵」として後堀河天皇の勅願寺となり、町衆の信仰も集めたのであった。

また「雨止み」という名前の由来は、東の八坂神社への参詣者等がにわか雨に遭った時、近くに家々も無く田畑の中にこの仲源寺だけが建っていたことから、寺で雨宿りをして雨の止むのを待つことが多く、いつしか「雨止地蔵」と呼ばれるようになったとも云われる。

この付近にこの地蔵菩薩を熱心に信仰していた老夫婦がいた。
夫が失明した時、夢に地蔵菩薩が現われ、仲源寺の井戸の沸き水で目を洗うようにと告げ、早速、お告げに従うと、たちまち目は回復したと云う。
夫婦が地蔵菩薩にお礼参りをすると、地蔵の右目が朱色に変色し、涙が流れていたと云う。

地蔵菩薩が自らの右目に眼病を移して、夫婦を苦しみから救ったという伝承から、いつしか「雨止」から「あ」が取れて、眼病に御利益がある地蔵菩薩「目疾地蔵」と呼ばれるようになったとも云われる。

この目疾地蔵「仲源寺」、今も鴨川の東、四条の南座の少し東にある。
訪れる人も多く、小ぶりな寺ながら、人気の地蔵さんである。

京の町の土着の住人、天皇や公家と云われる人達は小金はあっても、街づくりには興味無く、もっぱら、風流遊びに金は使った。
誰も、この町を住み易くすることは考えなかったようである。

また平安末期から、多くの武将達が京都に来ては去って行った。
皆、街を焼き尽くし、無責任に去って行った。

この時代、災害があると神仏の加護に頼って来たのが実情ではあった。
しかし、時代が少し後になって、京の町造りに、力を注いだ人間がいる。

戦国時代も収まりかけた頃、とりあえず天下の主となった秀吉は、自らの住み家として、京の町に改造を加えた。
但し、彼の場合は、自らの権勢を誇示するためのもので、動機は不純、真の住みやすい町造りではなかった。
それに金と情報の力に恐れてもいた。

それも合わせて、解決しようとした。

秀吉の思いは、
「信長のように朝廷に殺されては堪らない」
「武将や豪商に、金を持たせてはならない」
「町民には、宗教に溺れさせ、蜂起されては堪らない」
こんなことを考えて京都改造に取り組んだのであった。

信長は天皇の家来になることを拒否したが、秀吉は先ず天皇の家来となることを考えた。
最初は征夷大将軍を望んだが、それは叶えられず、関白で我慢した。

何と云っても天皇に変わって天下を治める天下人である。
城を造らなければならない。

そこで平安京の大内裏の跡に、聚楽第と云う見事な城を造った。
現在の二条城の直ぐ北である。
天守閣もあったそうであるが、その記録は残っていない。
城下に大名屋敷、武家屋敷を造った。
その後の城下町の原型となったそうである。
もちろん、後に切腹を命じられる千利休の屋敷も造られた。

それだけでは、天皇家に対しては、気が引ける。
合わせて、御所の改造に多額の資金を提供した。
御所は新造されたように見事なものとなった。

もちろん配下の大名に金と使役を課した。
京や大坂の豪商にも商売を安堵する代わりに金を出させた。

そして民衆と寺を分離するために、殆どの寺が移動させられ、都の片隅に置かれた。
寺町とか寺ノ内とか名付けられた。
鴨川が氾濫すれば、先ず被害を受ける場所である。

大改造であるので、莫大な金も人もかかる。
世の中の富も人も、京都に集中させた。
この時期、京には20万とも30万とも云われる人が、工事要員として、豊臣大名や豪商を先頭に集まっていたそうである。

そして最後の仕上げとして、「御土居」と云われる、京の町を守るための城壁?を造った。
高さ5m、幅20mの土塁と、外側の深さ5m、幅10数mの堀の構成である。

何から守るのか?
一つは鴨川の水害である。
そのためこの御土居は、北の方は、都の遥か北、紫野や鷹が峰辺りに築かれた。
鴨川の上流での氾濫に対応するためである。

東側は鴨川の土手として築かれた。丁
度現在の河原町通りが御土居であった。
西は紙屋川を堀に、南は東寺の南側、九条通りと云われる。
御土居は全周約23Kmの都を取り囲む城壁であった。

これで終わりかと思われたが、そうではなかった。
追加で信長時代に殲滅した本願寺を建立した。
これは御土居の中に建て、信長に対抗して、重用したものと思われる。

更に全国最大の寺、方広寺を洛外・東山の地に建立した。
大仏殿は奈良東大寺より大きくしないと最大にならないので、そうした。
そして、ここの梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」が徳川のいちゃもんの種になり、大坂の陣へ向かうのであるが、この段階では知る由もない。

更に本願寺と方広寺を直結するその名も「正面通り」を新たに造り、信仰の大通りとした。

後日譚ではあるが、徳川の時代になって、家康は本願寺と方広寺を分断すべく、両寺の間、正面通り上に東本願寺を間に建てたことは頷ける。

さて話しを御土居に戻す。
御土居で囲んでしまった訳はもう一つある。
天皇や禁裏の守備隊(四座雑色、しざぞうしき)を洛外に追放するためである。
城壁で囲んだので守備は必要なし、と理由づけた。
このようにして、朝廷を孤立させるのも、大きな狙いであった。

それでは御土居の出入口(洛中、洛外の通路)は何処にあったのか?

一般には七口と云われる。
この七つの口を固めておけば、一応、京への出入りはチェックできる。
少人数の侵入は何処からでも御土居を越えられるので、それは気にせず、
大人数(軍団)の侵入を監視する役目であった。

面白い話がある。
東の鴨川沿いの御土居には、三条の口(粟田口)と五条の口しかなく、四条通りにはなかった。
八坂神社祇園社の神幸祭の時の神輿は三条大橋を迂回するしかなかったそうである。
神仏への嫌がらせで、町人の信仰を邪魔して、離そうとしたのであった。

天皇の聚楽第への行幸、北野大茶会、醍醐の花見など、権勢を誇るだけ誇って、秀吉は伏見に居を構え、洛外からコントロールしようとした。
聚楽第へは名ばかりの関白、秀次を配置した。
これは天皇に対する人身御供のようなものである。

しかしそれも秀頼の誕生により、秀次を廃し、系累もろとも聚楽第も取り壊してしまったと云う。
むごい、もったいないことをするものである。

その後は関ヶ原、大坂の陣を経て、豊臣家は完膚無きまでに滅亡されてしまうのであった。

結局、豊臣家も京の町を通り過ぎて行っただけに終わった

しかし数多くの歴史的遺物を残したことは、明治以降の京都の再建の一助となったことは事実であろう。

最後に余談であるが
現在の鴨川の形は何時できたのであろうか?

江戸時代の寛文10年(1670年)の頃には、御土居の外にも町が広がっていた。
現在の木屋町や先斗町である。
その街を包み込むように、今出川から五条通りまでの間に寛文新堤ができ、元あった御土居は寺社や豪商に払い下げられ。徐々に取り壊され、現在の繁華街の姿になったのであった。

治水技術や、政治体制が変わることによって、御土居は無用の長物となった。

「北山の せせらぎ集め 鴨の川
青き水面に しらさぎ遊ぶ」

〔めノ段 完〕