京都の街を東西に貫く四条通り、東のどん詰まりは祇園の八坂神社、西のどん詰まりは、桂川を渡った所で突き当たる松尾大社である。

平安京ができる前も出来た後も、京都の西部一帯は帰化人、秦氏の活躍した土地であった。
この辺りは、葛野(かどの)郡と云った。

秦氏は中国の秦(しん)の始皇帝の末裔と云うことだが、それはそれとして、日本の当時の近代化に大きな役割を果たしてくれたことは間違いがない。
養蚕、農林業、土木、酒造など殆どの技術を日本に持ち込んでくれた。

そしてこの頃は大抵の事業は、秦氏がいないと進まなかったので、その関係で秦氏は莫大な蓄財をしていて、秦氏がいるから都を平安京に移せたと言っても過言ではなかった。
平安時代以降も秦氏は活躍し、伝統と文化の京の都はひとえに秦氏やその他の帰化人たちのお蔭と云うことができる。

平安京のみならず、秦氏は神社やお寺も私財を投じて建設した。
太秦の広隆寺、伏見稲荷神社、そしてこの松尾大社がおおどころである。

松尾大社は大海人の皇子/天武天皇の勅命により、奈良の都ができる前の701年に建設され、秦氏の守護神/氏神となり、代々の神主は明治の初期の世襲禁止令が出るまで、秦氏一族が努めた。

この松尾大社は平安京では、賀茂の上下両神社とともに皇城鎮護の神とされて来た歴史もある。

秦氏の一族は酒造りに秀でた者が多くいて、室町の頃から現在まで、この神社を「日本第一醸造之神」として、酒造家からは崇められている。

松尾大社に参拝したことから、日本の酒の歴史について考えて見たい。

酒造りは発酵が必須の条件である。
古代は果実などを放置して発酵させたところで、酒としてたしなんでいたようだが、まだ酒というには程遠いものであった。

日本酒は米の生産をするようになった弥生時代から、造られるようになった。
当時は酒造に欠かせないコウジカビの生産などは無かったので、人々は唾液から分泌されるアミラーゼにより米の澱粉を糖分に変え、空気中でカビとまみえさせ、発酵させて酒にしていた。
「口噛み酒」と云った。

この口噛み酒は「刀自(とじ)」と云われる女性が担当していたそうで、そこから現在も使われる「杜氏」と云う言葉が生まれたそうである。

大陸からやって来た秦氏の一族はコウジカビや酒の製造技術を持ち込んでいた。

日本的には、この米とコウジカビの組み合わせが絶妙のものであり、長い歴史の中で日本酒と云う世界に類を見ないものを生んだのである。

一方、日本社会も天皇を中心とした政治体系が確立されるに従って酒の需要が高まった
それは神様に供える御神酒(おみき)の必要性である。
当時の政治は神事と深く関係しており、神との交流に酒は必要不可欠であった。

神事といっても、天皇や豪族のためのもので、一般の市民は関係はなく、酒も高貴な人だけが、神様からのお下がりを飲んでいたような状態であった。

平安京には造酒司(さけのつかさ)という部局が出来、一手に酒の製造・販売をしていた。

平安の終わりごろから戦国にかけて僧坊酒と云うものが中心となった。
大きな寺院が酒を醸造・販売して利益を得ていた。
寺院は金持ちになり、伽藍や沢山の僧兵が抱えられるようになった。
独立のミニ国家のようになった。

それにメスを入れたのが、信長や秀吉である。
荒療治であるが、寺院を焼いてしまった。
酒の利権を権力者のものにしようとした。

それ以降酒は町民が生産するものとなり、京都辺りでは多くの酒蔵が出来たという。
300もあったらしい。
江戸時代には京や大坂の酒が江戸に運ばれ、「下り酒」と云われ、大層な需要があり、美味かったそうである。

一方、東の酒は下らない酒と云われ、一段低く見られていた。

余談ではあるが、つまらないものを「下らない」というのは、ここから来ているそうである。

その後、近世になって、酒の生産は、摂津の国、伊丹や池田に移った。
「剣菱」や「呉春」という銘柄である。

その後は西宮・灘に移り、今でも酒と云えば、西宮の宮水ベースの灘の生一本と云われることが多い。
しかし京の伏見も健在であるし、全国各地で美味しい米と水があるところでは、酒は造られていて、呑む人の好みでどれが美味しいかを決めてたしなんでいる時代となっている。

焼酎も含めて日本各地には立派な銘酒があり、呑み助にはたまらない時代となったのである。

すこし遡って、灘の生一本の歴史を探ってみる。

江戸の末期の頃に、今の神戸市、摂津の国灘郷に、山邑太左衛門(やまむらたざえもん)という蔵元がいた。

当時、六甲山の南側の地域に酒蔵が数多くできて来ていた。
伊丹や池田に対して優位性が保てるからである。
その優位性とは六甲山から流れ出す綺麗でミネラルを含んだ水の利便、江戸への海運の便、酒米の産地に近い等である。

灘と西宮の両方の蔵で、酒造りに励んでいた山邑太左衛門は日々思っていた。

「味が違う…。 灘のは美味いけれども…、西宮のようなスッキリ感がない」
「そうだ…。 米を西宮のを使ってみよう」

と造ってみたが、灘のは西宮に追いつかない。

「コウジか、温度か、杜氏か?」

西宮の杜氏も呼んで、灘で造らせて見た。

「灘では灘の味しかでないな…。やりたくないが、水も運ぶか? 無駄とは思うが…」
時はまだ江戸時代、水を運ぶのは、おおごとである。
桶を大量に作り、人と荷車も手配して大行列をしなければならない。

隣組の酒蔵からは「気でも狂ったか?」とバカにされた。
それでも探究心の旺盛な太左衛門、やってみないと気が済まない。
「バカと云われようが、チョンと云われようがやってみるぞ」
と蔵人に大号令を掛け、桶を作り西宮を何度もゾロゾロと往復した。

山田錦という米がある。
神戸の西、東播州一帯で獲れる酒造りに適した米である。
新米が出来るのを待って、満を持して西宮とそっくりに仕込んでみた。

新酒を口にして言った。
「美味い、美味い、西宮と一緒のものができたぞ。皆の者、味わってみい…」
順番に味わった。
拍手が起きた。

その日は太左衛門の酒蔵の蔵衆一同、皆で遅くまで酒盛したという。

太左衛門はこの水を宮水と名付けた。
西宮の酒蔵の井戸から汲み上げた水と云うことである。

太左衛門は太っ腹である。
近くの酒蔵にも話をした。
我も我もと、西宮から水を運んだ。
当時は、この水を酒蔵に売る商売も成り立ったということである。
六甲颪(ろっこうおろし 六甲山から吹き下ろす、冬の冷たい風)と相まって、灘の酒造りは、天下一品となった。

宮水は六甲に端を発する夙川の伏流水、場所は甲子園球場の少し西の方、
戎の一番福争いで有名な西宮神社の東南辺りが当時の採集地で、記念の場所として大切に守られている。

余談ではあるが、太左衛門の酒は当初、正宗と云った。
清酒(せいしゅ)から「せいしゅう」⇒「正」+「宗」⇒「正宗(まさむね)」、と名付けたのである。

太左衛門は後の商標登録制度が出来た時に、正宗の名で登録しようとしたが、正宗を称していた酒蔵が多くあって却下され、止むを得ず櫻正宗にしたそうである。

桜の下で皆で飲む酒を思ったのか、杯に浮かぶ花びらを思ったのか、それは分からない。

宮水の酒は一世を風靡した。
今でも日本の代表的酒蔵として、全国的に知られている。

その後も日本酒は、精米技術や仕込み技術を切磋琢磨して、また全国の米・水を生かして、ご当地銘酒が数多く出来てきた。

ビールや洋酒、呑み方のハイボール、焼酎との、激しい戦いもまだまだ続く…。

酒の神は都の片隅から、どのようにご覧になっておわすか?
興味あるところである。

「桜咲く 花にぬる燗 似合えども、
盛夏の今には 冷や酒恋し」

〔まノ段 完〕