京都嵐山にある世界遺産臨済宗天龍寺は足利尊氏が開基、高僧夢窓疎石が開山した寺である。

この天龍寺のある嵐山は京都観光の一つの名所である。
春は桜、秋の紅葉…、保津川下り、それに湯豆腐…。
それぞれ目的を持って訪れた方も多いとは思う。

天龍寺は南北朝時代、天皇の新政に反旗を翻し、その後北朝側について征夷大将軍となった足利尊氏が、その抗争相手であった南朝後醍醐天皇の死後にその菩提を弔うために亀山天皇の離宮である亀山殿に創建したものである。

尊氏がなぜ仇である後醍醐天皇の菩提を弔うことになったのか?
それには尊氏も崇敬する高僧夢窓疎石の「怨敵とて厭うべき者なし」という強い勧めであると云われているが、尊氏は尊氏で天龍寺建立のメリットを十分考えた上のことであった。

尊氏と後醍醐天皇、その関係を少し眺めてみる。

足利高氏や新田義貞、楠木正成の力を借りて鎌倉幕府倒幕に成功した後醍醐天皇は「建武の新政」をスタートさせた。

その前に高氏という名前であるが、「鎌倉幕府倒幕第一の勲功」として後醍醐の諱「尊治親王」の一字が恩賞として与えられ「尊氏」と改名したので、建武の新政前後で名前が変わっている。

鎌倉幕府打倒後、後醍醐天皇は京都に戻り、政治体制とは異なり、関白や摂政、院政も排除し、天皇自ら親政を行うことにしたのであった。
親政と云えば聞こえはいいが、それは天皇による専制政治、独裁政治と云って良い。

後醍醐天皇は政権中枢の政庁が貧相では仕方が無いので、まずはその権威を示す大内裏の造営を開始した。
またその為の資金集めとして新たに紙幣の発行に踏み切った。
恐らくは日本で最初の紙幣の発行ではないだろうか?
しかしそう上手く行くわけではない。
この目論みは中途半端で終わってしまう。

また、土地の所有権に対する政策で後醍醐天皇は
「所領が誰のものかというのは私が決めること。所有権を再確認する」
と発表した。
鎌倉時代は土地は現在の持ち主が20年間その土地を事実上支配していたら、その土地の所有権は変更できない」との決まりが御成敗式目に書かれていたのであるが、再確認とは穏やかではない。
確認の結果、土地が取り上げられることも有り得るのである。

そして役人では後醍醐天皇に近い人々が出世し、そのことが原因で政権内部で対立も起こったのであった。
とにかく政治にはなっていない政治であったと云われている。
人々の恨みは募るばかりであった。

全て自分でやらなければならない後醍醐天皇はうろたえ、その度に政策変更を迫られること多しであった。
まさに朝令暮改であったと云う。
そして毎日が大混乱であったと云う。
その結果、多くの武士達は後醍醐天皇に失望し、新たなるリーダーとして足利尊氏に信望を寄せるようになったのであった。

足利尊氏であるが、鎌倉幕府滅亡後に参議、武蔵守と重用され、大層優遇されていた。
そうなると当然のことながら、
「次は儂が武家の棟梁として、幕府を開く順番である」
と意気込んでいたのであった。

一方、後醍醐天皇の皇子である護良(もりよし)親王は、
「ここで尊氏に幕府を開かせてしまっては、なんのために政権を取り戻したのか解らない。むしろ、私を中心に武士を集めたい」
と考えていて、幕府滅亡後は密かに征夷大将軍に任命されていたのであった。

しかし尊氏が全国の武士達から信頼・支持されて行くのを見て、
「天皇のためにも、今のうちに尊氏は排除しなければ…」
と画策を弄したのであった。

それに気付いた尊氏、後醍醐天皇に天皇の愛人・阿野廉子(あのれんし)を通じて、
「護良親王は帝位を狙っている、というもっぱらの噂です」
と囁かせたのであった。

「あの馬鹿息子めが…」
と激怒した後醍醐天皇は親王を捕え足利直義に預けて、鎌倉で幽閉させてしまったと云う。
尊氏の策略がまんまと成功し、事なきを得たのであった。

北条泰家(ほうじょうやすいえ)という執権北条氏の残党がいる。
権大納言の西園寺公宗(きんむね)と、
「あの天皇を亡き者にすれば、また我々の天下が戻ってくるであろう」
「解った解かった。まろに任せよし、ホホホ…」
ということで公宗は後醍醐天皇を京都の北山へ紅葉見物に誘い、風呂に入った時を狙って殺害しようとした。
しかし、その謀略は弟の西園寺公重が洩らしていて、公宗は即逮捕、そして公家としては平治の乱以来初めての処刑となったのであった。

その計画が暴露された時点で、鎌倉奪還に向け最後の執権北条高時の次男、北条時行(ときつら)が諏訪で挙兵した。
当時鎌倉を守っていたのは尊氏の弟・足利直義であったが、圧倒的勢力に刃向うことはせず、幽閉していた護良親王を殺害して、一時退却した。
その状況を見て尊氏は、後醍醐天皇に北条時行討伐の勅命と征夷大将軍への任命を要望したが拒否されたのであった。

尊氏は
「もうやってられない」
と独断専行、征東将軍を名乗り鎌倉へ出陣したのであった。
そして北条時行らを追い出し、鎌倉にそのまま居座ったのである。
また尊氏はその戦いで功績があったものに対して自ら恩賞を行ったと云われる。

後醍醐天皇はこれには黙っているはずはない。
尊氏討伐の勅命を出したのであった。

その命令で新田義貞が鎌倉に向けて出陣した。
しかし箱根竹ノ下の戦いで尊氏が勝利した。
尊氏と直義の兄弟はその勢いで京都に攻め込み、京を一旦占領した。
しかし陸奥将軍府から北畠顕家(きたばたけあきいえ)が後醍醐天皇の要請に応じて出陣し、足利軍を破り鎌倉を占領し、さらに京都も攻略した。
尊氏らは敗北して、止むを得ず九州まで逃れたのであった。

ただ退却するだけではない。
九州に逃げる途中で持明院統の光巌上皇に接触し、「官軍」の院宣を貰っていたことは抜け目がなかった。

九州では後醍醐天皇方の菊池氏に率いられた大軍と戦った。
両軍は多々良浜で激突したが、天も味方し運よく尊氏軍が勝利、勢いを得たのであった。

その勢いを背景に足利軍は一気に都に向けて攻め上る。
神戸湊川の戦いで楠木正成を戦死させ、京へ向かう。
京に到着し東寺に本陣を構えたところへ新田義貞が攻め込むが、これも取り合わずに退ける。
そして京を占領して後醍醐天皇から、天皇の証である三種の神器を取り上げ、光厳上皇の弟を天皇として即位させ、自らは征夷大将軍という勅命を受けたのであった。
いわゆる北朝の発足である。

しかし三種の神器は偽物であった。
後醍醐天皇は奈良県の吉野に逃れ、そこを皇居としたのであった。
約半世紀に渡る南北朝の始まりである。

その後、石津の戦いで南朝の北畠顕家が尊氏の執事・高師直(こうのもろなお)の軍勢に敗北して戦死、越前の藤島の戦いで新田義貞が戦死した。
南朝の中核となっていた武将が全滅状態となり、失意のうちに後醍醐天皇は亡くなったのであった。

尊氏は後醍醐天皇とも尊氏とも親交深かった高僧夢窓疎石(むそうそせき)の発案により、天皇の菩提を弔うため、京都に壮大な天龍寺を造営させることにした。
足利幕府の力を大いに示す事になる、そして南北朝の融和を計るためにもなる、と考えたからである。

この建設に比叡山延暦寺が反対を唱えさまざまな横槍妨害があった。
寺名も当初の暦応寺から天龍寺へと変更されたのもその一つである。
また建設資金調達のために中国元に向けて天龍寺船による貿易も行ったことも知られているが、これは夢窓疎石のアイデアであった。

夢窓疎石は、高僧中の高僧で、その称号は夢窓国師・正覚国師・心宗国師・普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師と7度にわたり国師号を歴代天皇から賜与され、七朝帝師とも称される。
また彼は稀代の庭園師でもあり、天龍寺庭園の他にも京都の西芳寺(苔寺)、甲府の恵林寺、鎌倉の瑞泉寺などが有名である。

夢窓国師は心を磨く場として庭造りに勤しんだと云われている。
その言葉に、
『山水に得失なし 得失は人の心にあり』(夢中問答)
とある。
自然そのものの中に人間のありようを見出すということであろう。
人間は常に損得を考えて行動するが、自然と人間が一体化した共生と云うことが禅の庭にあると悟ったのではと思われる。

そして尊氏も、鎌倉幕府の最後の執権であった北条高時を弔うために鎌倉に宝戒寺を、新田義貞のために、彼の故郷の長楽寺へ寺領を寄進したという。 さらに、これまでの戦死者を弔うために、南朝派を除き全国の国々に、安国寺と利生塔を建造したと云われている。

戦いはまだ終わらない。
足利と南朝との戦いは3代将軍義満の時代まで、まだまだ続くのである。

〔てノ段 完〕