京都市内の東の大文字山の山裾に、「哲学の道」と云うところがある。

大学の偉い哲学の先生が散歩し、思索にふけったという命名である。

銀閣寺の入口辺りから、紅葉の永観堂の辺りまで、季節ともなれば、都会のメイン通りのように、人の波でにぎわうところである。

哲学の道に沿って北上する川は、琵琶湖疏水と云って、明治の初めの
禁門の変や鳥羽伏見の戦いで京都市中の大半が焼け、東京遷都に伴い
人口が減少し産業も衰退してきたため、当時の知事の北垣国道が殖産興業を目指し、若き土木技術者田邉朔郎を主任技術者として、その設計監督の下、明治23年に完成したものである。

琵琶湖の三保ヶ崎を取水口として、いくつかのトンネルを経て、山科盆地の北辺を流れ、粟田口から京都に入り、南禅寺の水路閣を流れ、一旦隠れ、また永観堂の北から、哲学の道沿いの川となり銀閣寺で西に曲がり、
住宅街の中に入って行くもので、飲料水を始め、工業用水や2っの発電所
まで造り、この発電電力を利用して、市電を走らせ、工場を動かしたという正に工業化の水路が出来たのであった。

琵琶湖疏水は、いくつもの支流に分かれ、遠くは伏見の先端まで流れて行く
ルートもあった。

この琵琶湖疏水沿いには、多くの桜が植えられて、春には多くの人の目を
楽しませてくれる。

また、秋には、周りの寺社の紅葉が美しく、これも楽しませてくれるのである。まさに、琵琶湖疏水あっての哲学の道である。
この道沿いの鹿ヶ谷辺りは、浄土宗の開祖、法然上人とその門下の仏法の
修業の場であって、かつては、法然上人始め、その門下生の親鸞や安楽、
住蓮達が歩いた道で、仏教色の濃い道である。
哲学の先生には悪いが、哲学と云うよりも、法然の道あるいは浄土の道
と名付けられた方が似つかわしいのではないかと思われる。

北から辿っていくと、法然院は法然一門の念仏道場であったのを、江戸時代に大きな寺院として知恩院の手によって再建されたものである。
今もその面影はあり、質素な伽藍である
しかし、ここの墓地は広大で、谷崎潤一郎、河上肇などの有名人の墓がある。

その南にある安楽寺は、当時からの寺院で立派な伽藍であったという。
エピソードは、後鳥羽上皇の松虫、鈴虫と云う、見目麗しい二人の女御が、この寺に惚れ込み、上皇のいない間に、鳥羽院に住職を呼び、説法してもらい、
その後、寺に駆け込んで剃髪し、尼さんになったという。

それが上皇の怒りに触れることになり、住職安楽と住蓮は死罪、法然は四国讃岐へ流罪、親鸞も越後へ流罪となったと云う。

法然は、讃岐にて死去、親鸞は京へ帰ったが、法然に会えなかったのが心残りであるとの言い伝えがある。

更に南に行くと、大豊神社がある。
ここは、狛犬ならぬ狛鼠が社をお守りしており、一風変わっている。

更に、熊野若王子神社は、後白河法皇が紀州の熊野権現を勧請した神社で、京都熊野三神社の一つ。
琵琶湖疏水は、この上流は伏流となり、哲学の道もここで尽きる。

その南、永観堂は元々は弘法大師の弟子が建てた寺であったが、百年以上も経ってから、住職静遍僧都が法然の教えに傾注して、浄土宗に帰依した寺である。
もみじ寺として、あまりにも有名なところである。
見返り阿弥陀や見上げる多宝塔など見所は多い。

さらにその先は南禅寺と云う禅寺臨済宗の大寺院、ここも見どころは多数である。

また、哲学の道の向い側の小高い丘には、これも紅葉で有名な真如堂がある。
ここは、叡山天台宗が京都に設けた最大の道場である。

その南には、金戒光明寺という法然が開祖した浄土宗本山の寺があり、大きな墓地の上には三重塔が聳えている。
また、この寺は江戸時代末期、京都守護職会津藩と松平容保が6年間本陣とした所で、墓地にはその任務で殉職した会津藩士も静かに眠っている。

この哲学の道とその界隈、紅葉銀座として、この時期、人の絶えない場所となっている。

「人ごころ 紅きもみじで しばし緩」

〔完〕