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京都の七条通りの東詰めの博物館のところの大きな交差点に、小規模の山門と総本山智積院という石柱が建っている。
正式名称は、「五百佛山(いおぶさん)根来寺(ねごろじ)智積院(ちしゃくいん)」、真言宗智山派の総本山である。
幾多の苦難の道を乗り越えて、徐々にではあるが、隆盛を極めて来た寺院である
東大路を挟んで、直ぐ西の三十三間堂や、北の五条坂を挟んでの清水寺は、観光コースとして京都の代名詞になっているが、ここはそんなに有名でもない。
寺宝はかの長谷川等伯の多くの国宝絵画、それに千利休デザインの庭園、知るひとぞ知る、隠れたる観光名所である。
苦難の道とは何なのであったのか?
高野山真言宗、中興の祖「覚鑁(かくばん)、興教大師」が紀州高野山に大伝法院を設立したのが、ことの起こりで1130年のことである。
この覚鑁、高野山のリーダーとなったが、厳格過ぎたのか暫くして、反対する僧達に疎まれ、高野山を追い出されてしまった。
というより、こんなレベルの低い僧に教える気もせず見捨てて、新天地を開拓しようとしたのである。
もちろん、この覚鑁に従う僧も沢山いた。
再興を期して紀ノ川を下り、根来の里に教義伝導の一大道場として、根来寺を建立したのであった。
根来寺は時流に乗って発展し、室町時代末期には数百の学舎と数千人の学僧を抱えるまでになったのであった。
その中の学院の一つに玄宥(げんゆう)僧正が住職の「智積院」もあった。
しかし、その隆盛もつかの間、武力で台頭してきた信長、秀吉によって、次の悲劇が起されたのである。
ここで、少し紀州の根来衆、雑賀衆に触れておく。
紀州人の気質は人に支配されるのも、するのも嫌いな、わが道を行くの性格である。
それでいて何事につけことが起これば、さっと集まるような寄り合いの文化である。
特にリーダーも求めない 紀州弁で「連れもていこら(連れ立って行こうよ)」
という言葉通りである。
大きな揉め事も無く、紀州の守護であった畠山氏も何もせず、放っておいたら良かった。
戦い好きな者は地の利を生かしいち早く鉄砲を手に入れ、またたく間に上達した鉄砲は上手かった。
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根来衆、雑賀衆と云われる集団があるとされている。
これは、組織化された集団でない。
事あるごとに集まっては来るが、それぞれ思い思いの大将につく、仲間同士で戦うことも多々あった。
紀ノ川流域の和歌山平野、中域と右岸(北側)の根来寺、左岸(南側)と河口の雑賀党、合わせて紀州衆、一箇所に集まるより2箇所の方が迅速に動ける。
上手く行っていたのであった。
この紀州衆の守りの最前線は北の和泉山脈を越えて、少し行った今の貝塚市あたりである。
即ち岸和田市までは大坂側であった。
紀州衆は信長方に付いたり、秀吉側に付いたり、はたまたその反対側に付いたり、ケースバイケースで戦っていた。
信長の反対勢力に付いた後は信長の怒りを買い、攻めては来るが、一度も負けたことは無い。
信長も秀吉も、「こいつらを早くつぶさなければ、おちおち出来ない」と思っていたに違いない。
秀吉は紀州衆を攻める口実を探していた。
天正12年(1584年、信長没2年後)、小牧・長久手の戦いが起こった。
秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍との戦いである。
紀州衆にとってはどちらでも良い戦いであった。
元々、自領は安堵されている。
他人の土地までも恩賞で貰う積りは無い。
お呼びが掛かれば、その時考えればよかろうと、
「さかな釣りでも、しとこうかのう」
と、のんびりしていた。
そこへ知らせ…、「大坂方が、攻めてきた」、「援軍を!」
泉州の根来の出先からの早馬である。
「なにをするか 馬鹿ものどもが…」
「雑賀にも連絡せい 海から行ってくれと…」
程なく和泉山脈を越える根来の一団、加太沖を進む雑賀の舟があった。
秀吉軍は紀州が出たことを聞き、前線をサッと後退させた。
紀州衆は程なく貝塚まで着いたが、何もなかった。
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まんまと秀吉の策略に掛かったのである。
「ワシの留守の間に、大坂を攻めよった 紀州のやつらがのう」
口実がみごとにできた。
小牧の戦いが終わった次の年、秀吉は紀州を攻めた。
10万の大軍である。
紀州衆や市民は良く戦った。
しかし、10万の戦闘集団には勝てなかった。
根来寺や粉河寺、雑賀の荘や城、悉く炎上した。
また最後の拠点の紀州連合の根城である太田城は秀吉得意の水攻めにて水没し、全ては決着した。
後日譚ではあるが、紀州衆の鉄砲達人達は徳川軍に召し抱えられ、常に先鋒として活躍したそうである。
この地に紀州徳川藩が置かれたのも、分かるような気がする。
さて、横道それた話を元へ戻そう。
根来寺を焼かれた智積院の玄宥達は、一旦高野山へ教堂を移し再興を期したが、それは家康が天下人になるまでの10年間以上も待たなければならなかった。
数年して玄宥達は京都に移り、洛北に智積院を再興する。
そして事あるごとに、家康に助力を請うた。
その甲斐あって関が原の戦いの翌年、現在の地、秀吉の「豊国神社」のかなり広い土地と、秀吉の遺児鶴松を弔うために建立した「祥雲禅寺」を賜った。
ここにめでたく智積院再興が出来る条件が揃ったのである。
祥雲禅寺には冒頭述べた長谷川等伯の絵画多数、利休好みの庭園等、桃山様式の文化が、そのまま生き続けている。
高野山をスタートに3回目の引越し、三度目の正直で今は、金堂、講堂の再建、僧侶・信徒用の立派な会館も出来、1000年の苦労が大きく開花している。
「長き道 大師に守られ 花開く」
〔ちノ段 完〕