平安時代の中頃、宮廷には何人かの文芸や詩歌の才女がいた。
その中でも思いっ切り秀いでていたのは、よく御存じの清少納言と紫式部、どちらも一条天皇の中宮の女御として宮仕えをした才媛である。

頃は西暦1000年の前後のこと、清少納言は中宮定子、紫式部はその次の中宮彰子で、時期がずれていて、互いに宮中では面識は無かったと云われる。

紫式部は先輩の清少納言を評して、
『清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人
さばかりさかしだち、真名書きちらしてはべるほども、
よく見れば、まだいとたらぬこと多かり』
と紫式部日記に書いている。
賢こそうな振りをしているが、まだまだ人間が出来ていないと悪口を言っている。

一方、清少納言はと云うと紫式部のことは知らないので、『枕草子』には紫式部の亡夫・藤原宣孝の逸話や、従兄弟・藤原信経を清少納言がやり込めた話があるのみで、本人に対する批評はない。

冒頭から女の戦いになってしまったが、ついでに双方の主人、中宮定子、中宮彰子にも触れる。

中宮定子は関白藤原道隆の娘で17歳の時、一条天皇の中宮となり、清少納言はその女御として後宮に出仕した。
その時、清少納言は28歳だったと云われている。

清少納言は既に16歳の時、橘則光という者と結婚して一児をもうけたが、やんちゃな(今で云うDV)則光には手を焼き10年程で離婚し、それを契機に宮廷に出仕したと云う。

その頃の初々しい気持ちが枕草子に書かれている。
『宮に初めて参りたるころ、ものの恥づかしきことの数知らず、
涙も落ちぬべければ、……』〔第184段〕

宮廷のことが分からず、回りの女御達から馬鹿にされていた様子であった。
しかし中宮は教養高い様子の清少納言を人のいない夜の間に何時も話し相手としたそうである。

その後、中宮定子の父親、藤原道隆が亡くなり、翌年、兄の伊周と隆家が花山院の輿に矢を射かけたという疑いをかけられた事件によって失脚すると、定子も禁中を退去し出家したと云う。

定子が第二皇女を出産し宮中に戻り、兄達も赦免されたが、心労が元で24歳で亡くなってしまった。
この時に清少納言の宮仕えも終わったと思われる。
齢35歳であった。

続いて中宮として彰子が入内した。
云わずと知れたわが世の春を豪語する藤原道長の娘である。
紫式部が彰子の後宮に出仕したのもこの時であった。

道長は道隆の弟である。
兄道隆一族の失墜を望み、謀殺など一連の事件を仕組み、みごと娘の彰子を中宮にしたのであった。

その後、彰子は天皇の母ともなったので道長の陰謀は大成功であった。
道長は摂政となって、子供、頼通に繋がる黄金時代を築いて行くのであった。

『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることの なしと思へば』
道長の有名な歌である。

話を清少納言に絞る。

梨壺の5人の1人、後撰和歌集選者の清原元輔は清少納言の父親である。
余談であるがこの清原氏は皇族天武天皇・舎人親王に発する家系である。
従って清少納言も皇族の末裔と云うことになる。

小倉百人一首にも元輔の歌がある。
『ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ
末の松山 浪こさじとは』

この元輔、現在は泉涌寺境内となっている場所に山荘を構えていた。
幼少の清少納言(名を諾子という)のそこが自然と触れ合う遊び場であった。

泉涌寺はJR京都駅から東方向、東山三十六峰の一つ月輪山の麓にある。
真言宗の泉涌寺派総本山で、「御寺(みてら)」とも呼ばれている。

この寺は弘法大師がこの地に草庵を結び、後に仙遊寺と名付けたのが起源であるが、下って鎌倉時代に開山となる月輪大師(がちりんだいし)が大伽藍を造営し現在の大寺院の姿となった。
その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改ためられた。
この泉は今も枯れることなく涌き続けていると云う。

当初から天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場となり、幾多の学層を輩出していると云う。

また皇室の信仰が篤く、鎌倉中期には四条天皇の葬儀がこの寺で営まれ、その後も歴代天皇・皇后の葬儀が江戸期最後の孝明天皇に至るまで執り行われ、山稜「月輪陵」が境内に設けられている。
泉涌寺が「御寺(みてら)」と呼ばれる所以である。

まだ泉涌寺が草庵の寺だったころ清原元輔の山荘も軒を並べていた。

清少納言と言う名は宮廷に出仕してから、一条天皇より賜ったと云われる。
清原の清と元輔の少納言職を合わせた名である。
女性ではあるが、宮廷で官職の男をやり込めたりして男まさりの印象があったのであろうか?

その機知に富んだ振舞の清少納言は中宮定子から大切にされ、お互いに教養を高め、世の中のことどもを楽しんでいたと云う。

ある雪の降った日の中宮の部屋でのやりとり、
『雪いと高く降りたるを、例ならず御格子まゐらせて、炭櫃に火起して、
物語などして集り侍ふに、「少納言よ、香爐峯の雪はいかならん」
と仰せられければ、御格子あげさせて、御簾高く卷き上げたれば、
笑はせたまふ 人々も「皆さる事は知り、歌などにさへうたへど、
思ひこそよらざりつれ なほこの宮の人には、さるべきなめり」
といふ』〔第280段〕

これは唐の詩人、白居易の詩の一節、
『香炉峰の雪は、布団の中から簾を撥ね上げて、手をかざして眺めこむ』
を知った上での機知に富んだやり取りである。
周囲の女達もなるほどと頷ずき絶賛したと云う事であった。

この頃になると女御達からは、一目も二目も置かれる存在になったいた。
こんなことで清少納言も鼻高々だったかも知れない。

ある日、中宮の兄である内大臣藤原伊周がやってきて、妹中宮定子と一条天皇に当時は高価であった料紙を献上した。

暫くしてから定子から、
「帝の方は『史記』を書写なさったが、こちらは如何に?」
という下問を受けた清少納言が、
「枕にこそは侍らめ」
と言ったところ、中宮は、
「さば、得てよ」
と言い、清少納言に紙束を下賜したと云う。
その紙に書き綴ったのが『枕草子』と云われる所以である。

清少納言が仕えた中宮定子の墓は新幹線のトンネルの少し南の丘陵地にあり、一条天皇皇后定子鳥戸野陵(とりべのみささぎ)と云い泉涌寺の北隣である。

清少納言はこの定子の眠る御陵を拝しながら、亡父元輔の山荘に住み、藤原公任ら宮廷の旧識や、和泉式部・赤染衛門ら中宮彰子付の女房とも消息を交わしていたと云われる。

また一説には、この山荘に隠遁する前には、再婚相手・藤原棟世の任国摂津に下ったとも、阿波に行ったとも云われ、それぞれに逸話・遺跡も残っている。

清少納言は宮廷勤めを始めた頃、中宮始め周りの人から、
「元輔さまのお子、歌を詠むのは得意でございましょう?」
と良く聞かれたそうである。
「歌は父の名を辱めてはいけませんので、詠みません」
と云い、歌は詠まなかったそうである。

枕草子に、
『頭弁の職にまゐり給ひて、物語などし給ふに、夜いと更けぬ
・・・・・・
「いと夜深く侍りける鷄のこゑは、孟嘗君のにや」
ときこえたれば、たちかへり、
「孟嘗君の鷄は、函谷関を開きて、三千の客僅にされりといふは、
逢阪の関の事なり」
とあれば、

『夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも
世に逢阪の関は ゆるさじ』

『逢阪は 人こえやすき 関なれば
とりも鳴かねど あけてまつとか』』〔第129段〕

とのやり取りがある。

この歌、本人も書いてるように力作だったそうである。
小倉百人一首に収録されているのは、良く御存じの通りである。
この歌碑、泉涌寺の山門をくぐった右手に建てられており、清少納言の山荘のあった場所とも云われる。

清少納言は、この枕草子について、次のように書いている。
『この草子、目に見え心に思ふことを、人やは見むとすると思ひて、
つれづれなる里居のほどに書き集めたるを、あいなう、人のために便なき
言ひ過ぐもしつべきところどころもあれば、よう隠し置きたりと思ひしを、
心よりほかにこそ漏りいでにけれ
・・・・・・・・・・・・
左中将、まだ伊勢守と聞こえし時、里におはしたりしに、端のかた
なりし畳さしいでしものは、この草子載りていでにけり
惑ひ取り入れしかど、やがて持ておはして、いと久しくありてぞ
返りたりし
それよりありきそめたるなめり、とぞほんに』〔第319段〕

『この草子には、私の目に見え、心に思うことを、書き付けた。
他人にとって具合の悪い言い過ぎをしたにちがいない箇所もあるため、うまく隠していたと思っていたのに、左中将様の目にとまり、心ならずも世間にもれ出てしまった』
というように枕草子の後書きで、奥床しき様で書いているが、それはこの時代の物事の書き方の常であったろうと思われる。

この枕草子、後の徒然草や方丈記に多大な影響を与えたことは間違いがない。

枕草子の最初の一文、
『春は曙  やうやう白くなりゆく、山ぎわ すこしあかりて、紫だちたる雲の 細くたなびきたる』
この光景に出会いたいと思っているが、まだお目にかかれていない。

「月輪(つきのわ)に 一陣涼風 秋間近」

〔せノ段 完〕