「風が吹けば、桶屋が儲かる」式の話は、歴史の世界でもある。

堺の町は大坂の摂津、河内、和泉の三国の境目の町ということで、境⇒堺に、名付けられたと云われている。

室町幕府の頃は日明貿易と云って、中国との貿易が行われていた。
貿易港は摂津(兵庫県東部、阪神間)の港であった。
堺はおこぼれ頂戴いの程度であって、大きな取引額でも無かった。
堺の町に大きな転機が訪れたのは応仁の乱であった。

不思議に思われるかも知れないが、京の町を焦土と化した応仁の乱では外港であった摂津の港も戦火に巻き込まれ、船は止むを得ず堺の港に入ったのであった。
乱の後、摂津の港は荒廃してしまい、以後貿易港は堺に移った。
武家ももちろん咬んでいる。
その武士は大内氏や細川氏であるが詳細は省略する。

さらに応仁の乱で弱体化した室町幕府では、自力で遣明船を出すことが困難となり、商人に派船を請負わせる方式を取った。
一船当たり抽分銭(税金)三千~四千貫文(約一千万円)を幕府に支払えば輸出入の許可が得られた。
貿易額はその十倍や二十倍にも昇ったので、諸経費を差し引いても十分な利益が出て、堺の商人達は大いに潤ったと云う。

おまけに幕府には管理する力も欠如しているため、堺商人の自主管理となり、「東洋のベニス」と云われる自由・自治都市が生まれたのであった。

風は応仁の乱、桶屋は堺商人たちであったのである。

堺の自治組織は会合衆(えごうしゅう)と云う。
納屋衆、生糸衆なども合わせて30以上の豪商がいたと云う。
彼らが連携して統治力を持って町を治めていた。

もちろん都市を守るために街の周囲を堀で囲み、容易に攻められないようにもした。
用心棒として武家三好衆とも連携していた。

話は信長の入京から始まる。
永録11年(1968年)9月に、将軍足利義昭を奉じて上洛した信長は、10月に石山本願寺や堺の町に矢銭(軍用金)2万貫(約6億円)を要求した。
これに対して老舗の豪商能登屋・紅屋らが中心となって矢銭を拒否したが、これで済むわけではない。

次の年、再び入京した信長は堺の会合衆が四国阿波の三好三人衆を助けたことを口実に堺討伐命令を下した。
「堺の町の老若男女もろとも、全てを殺すべし」
ここまで云われるとさすがの会合衆も信長に2万貫を差し出し、詫びを入れたという。

詫びを聞き入れた信長は将軍義昭に堺の町に代官を置くことを願い出て、新興の豪商家で当時信長に接近していた今井宗久を任命したという。
これにより堺は信長→宗久が支配することになった。

今井宗久は奈良橿原今井町の出身と云われ、後に述べる茶道の師匠武野紹鴎(じょうおう)の女婿となり、信長の今後の躍進を見抜き、その接近のために、名器松島の茶壺、紹鴎茄子を献上したことでも知られている。

また信長の許しを得て、鉄砲などの取引を扱い、莫大な財を成し、信長の天下統一を支えた人物とされてもいる。
さらに三好長慶、松永久秀にも接近していた。
「久秀と宗久は似た者同士よ。卑しい身分を隠して成りあがった」
と、堺衆の中には陰口を叩く者もいたが、共に世の大勢を見抜く才能があったことは間違いない。

話は少し遡る。
京都の三条に住んでいた村田珠光と云う人物がいた。
紫野の大徳寺の真珠庵に通い、高僧一休宗純から禅を学びながら、茶の心を研鑽した珠光は、茶禅一味を体得し、草庵の茶、わび茶の世界を起こしたと云われている。
また珠光は能阿弥の引き立てにより、足利義政の知遇を得て、銀閣寺の東求堂の茶室「同仁斎」に四畳半茶室を進言したと云われる。
これが草庵の茶室の原型になったとも、四畳半の間取りの最初とも云われる。

この珠光がはじめた草庵の茶は、その後、孫弟子の武野紹鴎に引き継がれることになる。

武野紹鴎も堺の豪商であった。
堺の豪商たちはその商いの傍ら文化なもの心の内実を求めた。
紹鴎は大徳寺で禅の修業をし、さらに茶の湯にも関わるようになった。
唐物のかわりに信楽や瀬戸や備前などの日用品を茶器として取り入れたり、三畳・二畳半の茶室を創作したりした。
武野紹鴎は、村田珠光の草庵の茶を一層深掘りするとともに、簡略化させ、精神性をより高め、わび茶の世界を確立したと云う。

紹鴎は堺の南宗寺と云う大徳寺の末寺にも、足しげく通った。
ここがこの後の堺衆の茶道の拠点となって行くのであった。

千利休は堺の納屋衆(倉庫業)「魚屋(ととや)」と云う豪商の跡取りとして生まれ、若い時から茶道を志し、初めは東山流の書院茶北向道陳(きたむきどうちん)に学んだが、のち武野紹鴎に師事した。
幼名は与四郎、法名を宗易、足利同朋の祖父の姓を許され、千宗易と名乗った。
南宗寺に通い、時には本山大徳寺にも出向いたと云う。

信長が堺の町の支配者となってからは、今井宗久、津田宗及と共にその力が認められ、信長の茶頭となって、茶会を開くなど活躍した。

信長は名器茶道具を所持していることが、茶道への憧憬の深さと考えていた。
草庵の茶とは相いれないが、何せ権力者、合わせておくのが無難であった。
明からの船が着く度に、珍らしい茶器が付け届けられた。

信長が秀吉の要請に応じて中国戦線へ出向く前日、本能寺で戦勝祈念茶会が開かれた。
信長の所持している名器も並べられたと云う。
しかし、あくる日未明、信長は何者かに暗殺され、付け火によってそれらの名器も焼けたと云うが、焼けたかどうか真偽のほどは分からない。

信長の後継者となった秀吉は信長以上に茶の湯に熱心だった。
秀吉に感化された茶の湯好きの武将は競って宗易に弟子入りし、後に「利休十哲」と呼ばれる細川忠興、織田有楽斎、高山右近、古田織部など優れた高弟が生まれた。

山崎の合戦の折り、宗易は麓の妙喜庵に秀吉の陣中に造っていた二畳間の茶室「待庵(たいあん)」を移設したと云われる。
現在に唯一残っている宗易の茶室で、国宝である。

1585年、秀吉が関白就任のお礼に正親町天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を取り仕切り、天皇から「利休」の号を賜った。
このことで、彼の名「利休」は天下一の茶人として全国に知れ渡ったのであった。

秀吉は信長以上に茶会を好んだという。
しかし派手好きの秀吉には、自慢できる茶器が不足していた。
そこで利休は鑑定に精を出し、新たな「名品」を生み出していったと云う。

天下一の茶人の鑑定には絶大な信頼があり、人々は争うように利休選定の茶道具を欲しがるようになった。
この過程で利休は自分好みの渋い茶碗を、ろくろを使用しない独自の陶法で樂長次郎ら楽焼職人に造らせた。
武骨さや素朴さの中に「手びねり」ならではの温かみを持つ樂茶碗を、人々はこれまで人気があった舶来品よりも尊ぶようになり、利休の名声はさらに高まったと云う。

1587年、秀吉は九州を平定し実質的に天下統一を果たした祝勝と、内外への権力誇示を目的として史上最大の茶会「北野大茶湯」を北野天満宮で開催した。
公家や武士の他、町民や農民も身分に関係なく参加が許された。
当日の亭主には、利休、津田宗及、今井宗久、そして秀吉本人という4人の豪華な顔ぶれが並んだ。
天満宮の拝殿には秀吉秘蔵の茶道具が展示され、会場全域に設けられた茶席は実に800ヶ所以上という大イベントになった。
秀吉は満足気に各茶席を見て周り、自ら茶をたて人々にふるまったという。

余談ではあるが…、
利休は弟子から、
「茶の湯の神髄とは何か?」
と問われた時、
「茶は服の良き様に点て、炭は湯の沸く様に置き、冬は暖かに夏は涼しく、花は野の花の様に生け、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」
と、答えた。
『利休七則』と云う。

秀吉は「北野大茶湯」辺りから独善的・独裁的になった。
徳川家康や前田利家は触らぬ神に祟りなしよろしく、利休を通して意見を匂わすようになった。
利休は内閣官房長官状態で、政権のNo.2に押し上げられたのであった。
秀吉には苦いことも言わなくてはならない。
そうなると当然のように利休は秀吉に煙たがられるようになるのは分かっていたが、その役を買って出た。

秀吉は堺の利益を独占する為に、数字には強い事務屋、石田三成を堺代官として派遣し、重税策を取ったりした。
さらに自由都市の象徴であった濠も埋めてしまった。
信長でさえやらなかった無茶苦茶なことを、なりふり構わず始めたのであった。

それでも利休達堺衆は耐えた。

それでなくても堺の商売は凋落傾向であった。
その理由は秀吉が堺商人を大坂・京都などへ移住させたことと明貿易額の減少、合わせて三成の締め付けによるやる気の欠如である。

秀吉はこれを解消するために、外国人や三成からの進言「朝鮮の属国化」に気持ちが傾いていた。
博多を貿易港とし、近江商人がバックアップすると云う図式である。
一方、家康・利家など大家は堺派で、バックアップ派である。
もちろん堺の息の根を止められる計画には利休もその先頭に立って秀吉の前で三成らと議論をした。
家康や利家が出てこなくても代弁しながら進言した。

決着が付かないまま月日が流れた。
負けず嫌いの三成、打開策にとんでもないことを考えた。
ごろ利休が寄進した京都紫野大徳寺の山門の上層に、利休の徳を崇めるべく利休像を造らせ祀らせたのであった。
そして秀吉にご注進に及んだ。
「利休殿の増長が過ぎ申す。関白殿に足の下を通れとおっしゃられる。如何なものでありましょうや?」
家康の方広寺の鐘の「国家安康」見たいないちゃもんである。

まんまと嵌められ、利休は堺にて蟄居を申しつけられた。
そして突如京都に呼び出され、聚楽第にて切腹させられた。
御歳70歳であったという。
もちろん利休の弟子の大名達は助命嘆願したが、一切聞き入れられなかったと云う。

後日譚ではあるが、
利休の子、千宗旦の子供たちは表千家、裏千家、武者小路千家の三千家をそれぞれ立ち上げ、利休の心は連綿と流れ、現在にも立派に生きている。

最後の勝者は秀吉でも三成でもなく、利休であったと思われる。
今も利休はその一族とともに、堺の南宗寺で静かに眠っている。

 

 

 

「奢る日々 死しては残す 茶の心 落ち葉清めて また散りばめる」

〔さノ段 完〕