京都の祇園四条通りから花見小路を南へ下がると、その突き当たりに小さな寺門がある
臨済宗、京都五山に数えられる建仁寺の東門である。

鎌倉の二代目源頼家将軍の時に、唐から帰国した臨済宗の開祖栄西が建てた寺である。
臨済宗の寺では最も古いものであるが、開山当初は禅宗はまだお墨付きが得られず、当時幅を利かせていた天台宗・真言宗との併立寺院であった。

祇園の花街に隣接しているためか明るい華やかな寺院である。
舞妓姿の女性が時には境内に花を添える。
しかし、ここはなぜか観光コースから外れていて、馴染みが薄い。

建仁寺は禅宗を好む室町将軍や文化人には愛されたが、応仁の乱や度重なる鴨川の氾濫で荒廃も甚だしかった。

今回はこの寺に関わり再興にも力を尽くした毛利の外交僧であり豊臣政権の大名「安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)」を追っかけて見る。

室町末期に広島安芸の国の守護は武田信玄の同族、武田信重が努めていた。
大内氏に攻められ重信は自害、安芸武田氏は滅ぼされた。
その息子は家臣に連れられ、命からがら安国寺と云う名の寺へ逃げ込んで、九死に一生を得たという。
その息子は幼名竹若丸、後の名を安国寺恵瓊、まだ幼い4歳であった。

実は武田氏を滅ぼしたのは、この幼児が後に仕えることになった大内氏の家臣、毛利元就であったとは皮肉なものである。

竹若丸は明けても暮れても日々、安国寺で修行に励んだ。
片っぱしから書物にも触れていった。

月日が流れそろそろ元服を迎えるころ、京都の高僧が安国寺に立ち寄った。
東福寺の住持、竺雲恵心(じくうん えしん)であった。
毛利元就はこの恵心に帰依していて、恵心から京都の動きや諸侯の情報を得ていて、諸侯や禁裏との駆け引きもしてもらっていた。
いわゆる外交僧としての働きである。

安芸に来ては安国寺を常宿としているので、竹若とも親しくなっていた。

ある日、恵心は竹若に、
「竹若もそろそろ、元服じゃな。いつまでも、ここでは、何も変わらんぞ…。どうじゃ、拙僧の寺に来て、皆の中でもまれて見るか」
恵心は見込みのありそうな者を見かけては東福寺で修行をさせていた。

「ここを離れたくはござらんが、都には行ってみとうござる」
話は速く動いた。

武家であるので次の日、恵心の烏帽子親にて元服を済ませ、竹若丸改め武田一任斎正慶、法名を恵瓊と名乗ることになった。

そして安国寺の僧籍のまま京都へ同行したのであった。
恵心はとりたてて急ぎのことがなかったので、京都への道々、知り合いの武将や寺に立ち寄り、にこやかにふるまい、四方山話に花を咲かせていた。
その都度、恵瓊も、
「恵瓊と申す若輩者、以後お見知りおきを…」
の言葉を発するのみであった。
しかしこれが後あとになって効いてくるのであった。
外交僧恵心の代理の恵瓊、これがスタートであった。

途中の摂津や大坂の街は船でやり過ごしたので、良くは見えなかったが、山崎で船から下りて天王山から京の町を初めて見た。

恵心はあれこれ説明してくれたが、何も残らなかった。
川や池の向こうに広がる広大な街の風景だけが目に焼きついた。

「さあ、参るぞ」
そこから2時間、東福寺を目指して早足で歩いた。

東福寺には色んな出自の若い僧がいた。
多かったのは応仁の乱にて、職を失った武家の子弟であった。
先輩僧の中に入り込み日々修行を続けた。

時々は、恵心が
「さあ、参るぞ」
と云っては御所・禁裏や武家の屋敷に連れて行ったくれた。
恵心は恵瓊の才能を見抜き、恵心の様な外交僧に育てようとしていた。
それに恵瓊は武田の一族、源氏の系累であったことも作用している。

連れられていっても恵瓊の云うことは決まっている。
「恵瓊と申す若輩者、以後お見知りおきを…」
と云うことだけであった。

東福寺に修行僧として入山してから、はや10年以上も経った。
恵瓊は京都の禅林の中ではメキメキ頭角をあらわしていた。

ある日恵心は恵瓊を安芸の国に同行させた。
恵瓊としては久々の里帰りである。
まず安国寺に入り、住職としてご本尊に対面した。
恵心・恵瓊の師弟は旅装を解き、しばしのくつろぎを得たのであった。

「明日は、元就殿に会いに行くぞ…。儂はもう年じゃから、安芸までは、これが最後じゃ…」
「元就殿にはお前を代わりに寄こすと言ってある。親の仇ではあろうがのう…。
こだわりなんぞは捨て、もっと大きな仕事をな・・お前なら出来る。器は儂よりも遥かに大きいからのう…」

「恵心様、何から何までかたじけのうござる…。天下の法、天命の妙を十分に御教示賜りてござる…。恵心様の名を汚すことは決して致しませぬ。ご安堵、賜りたく…」

かくして恵瓊は毛利元就の下で働く外交僧となったのである。

毛利に仕えてから近隣との戦いに出かけた
手始めに九州の大友氏との和睦を取りまとめたりした。
しかし程なくして元就が亡くなった。
何も感動はなかった。
元就の遺言があった。
「毛利は天下を目指さない」
と…。

恵瓊は再び京に出た。
元就の逝去の報を受けた諸侯がどう動くか?
不穏な芽は摘まないといけない。

東福寺に帰った。
僧の道を歩みながら将軍や諸侯、禁裏との付き合いにも余念がなかった。
足利将軍家からは頼りにされた。
足利将軍の最後の砦は禅寺と毛利であったのである。

この時、恵瓊は禅宗の最高の地位まで上り詰めたのは頷ける。
東福寺はもちろんのこと、南禅寺や建仁寺の住持ともなった。

しかし信長の勢いは強かった。日の出の勢いであった。
この時、恵瓊はこう予言している。
「信長の勢いも5年か3年であろう。その時は高転びに横死するとみえる。藤吉郎は中々の人物である」

話を先に進める。

信長軍の毛利攻め、中国攻めである。
この戦いは秀吉だけだと長期戦となり痛くも痒くもないが、信長が戦線に出てくると毛利は負けることになるのは火を見るより明らかだった。

信長を来させない。これが最良の策である。
恵瓊は京で奔走した。
信長の横暴に手を焼き憎しと思っている朝廷、公家、僧、武家…、
「信長の出発までに襲う」
これが第3次信長包囲網である。
密約は出来た。
実行者も決まった。
信長に恨みを持つ浪人武士、浪人僧、忍びの者、等々である。

信長本隊は明智光秀隊と共に備中高松へ向かう予定であった。
光秀隊と合流するまでに襲わないといけない。
その最後のチャンスが本能寺の変の日、天正10年6月2日であったのである。

その知らせを備中高松にて、恵瓊は今や遅しと待っていた。
届いた。
どうやら敵将秀吉にも届いたらしい。

恵瓊はじらしてやろうと思っていた。
そこに秀吉からの軍使がやって来た。
「和睦したい。条件は毛利の領地の半分を差し出すべし…」
「何をバカなことを…!帰れ!」
と帰した。

またやって来た。
「条件は保留。高松城の城も人も明け渡すべし…」
「だめだ!」

秀吉は早くこの場を離れたいのが分かっていた。
「格好つけさせて恩を売ろうか?」
と恵瓊は思うようになった。
「毛利に落ち度はない。城主に切腹させる故、城も城兵もお構いなし。これでどうじゃ?」

時間はかかった。
次の軍使は中々来なかった。
この時、秀吉はもう姫路に向けて駆けていた。
和睦はなった。
秀吉は勝手に和睦し、戦場を勝手に離れていた。
信長に知れたら軍規違反で、直ぐの切腹ものである。

これで、毛利は助かった。
しかし、高松城主清水宗治を失ったことは残念ではあるが…。

恵瓊も儲けた。
秀吉に恩を売ることに成功した。

和睦は一応3年後に成立した形となった。
毛利が秀吉に臣従することで領地安堵となった。

その後、恵瓊は秀吉に取りたてられ、禅林の高僧でありながら、豊臣大名となり、伊予6万石が与えられた。
自寺安国寺も1万5千石の領地となり、立派な伽藍を備える寺になった。
大名として小田原攻めやら朝鮮の役にも参戦し、それなりの軍功をあげた。
小早川とは仲がよく、常に一緒の行軍であった。
一方、吉川広家とは仲が悪く、口を開けば喧嘩だったそうである。

そして荒廃していた建仁寺の再建にも力を入れた。


安国寺の方丈をそっくり寄進するとともに、寺としての体裁を取り戻した。

恵瓊は大名になったことでその慧眼を失ってしまったかのようだった。
秀吉の将来、家康の動き、全く読めていなかった。

秀吉の死後、大坂城にいて、京都まではでかけたが、西国方面には行かなかった。

東福寺に退耕庵と云う塔頭がある。
恵瓊が建てた寺だが、ここの茶室で石田三成や宇喜多秀家と恵瓊は、家康討伐の謀議を度重ねた。
忍び天井や伏侍の間を装備して、不意に備えてもいた。

大垣を戦場と想定し家康討伐大作戦を立てていた。
大将は毛利と決めていた と云うか、それ以外にはいない。
秀頼を大将にしたらいいのだが淀殿は、
「豊臣家大名同士の戦いであろう。秀頼の顔は必要無し」
と、一向に乗って来ない。

恵瓊は毛利に行った。
輝元と直談判して何とか担ぎ出した。
しかし関ヶ原の時には、輝元は大坂城にいただけだけで、戦場には出て来なかった。

いよいよ家康との決戦の時を迎えた。
三成は大垣城に、毛利一族は、吉川広家隊を先頭に恵瓊隊、その後ろに毛利秀元隊と大垣を望む南宮山に布陣していた。
小早川隊はその西の松尾山にと2段3段の構えであった。

しかし家康軍は大垣城・南宮山をやり過ごし、関ヶ原まで入ってしまった。
関ヶ原にて戦闘は始まったが先頭の吉川広家、さらには小早川も家康に内通していたため、毛利一族は一切動かなかった。
もちろん恵瓊軍も吉川が動かないので、動けなかったのではある。

陽が明々射す頃には勝負は着いていた。

戦い終わってから恵瓊は吉川に、
「毛利の西軍加担の責任は全て拙者にある。切腹して徳川殿に侘びを入れる」
と云ったが、
「それよりここから、一刻も早く離脱するがよかろう」
と逃げるように仕向けた。

恵瓊がいると迷惑だったのは頷ける。
毛利も何かのお咎めを負わなければならなくなる。

それで恵瓊は逃げた。
伊勢、近江から京都市中を逃げ回ったが、徳川方の追手に捕らわれ、三成や行長と共に、六条河原で磔に処されたという。

恵瓊の最期は毛利に裏切られ、殺されてしまうことになった。
親を毛利に殺され、自分もとは思ってはいなかっただろうに…。
大家毛利の生き延びる様を見たような気がする。

現在も、恵瓊僧上は建仁寺方丈の庭で静かに休んでいる。

「方丈の 白壁眩し 秋(安芸)の陽や」

〔けノ段 完〕