「くわわんか!」
「くらわんか!」
大阪枚方市の近所の人以外は聞き慣れない言葉であろうか?
これは、淀川を行き来する三十石船の船客に、枚方宿、港付近で、船に乗って食べ物を売り付ける少々手荒い物売りの呼び込みのセリフである。

観光地の川下りでは、こういう船を近づけての物売りがあるが、そのような者の少々手荒い版である。

「飯、くらわんか!」
「酒、くらわんか!」
となる。

豊臣秀吉の時以来、京都大坂の間のルートが開けた。
伏見から大坂の京橋に至る陸路(文禄堤)と淀川水運である。
丁度中間地点の現在の枚方市に枚方宿が開け、本陣もできて、人や荷物が盛んに行き来したのであった。

このルートは、京へ上るときには陸路を、下るときには川船を利用するのが
一般的であったと云われている。

この変則交通のスタイルであるが、何とか上り下りの両方共で商売をして、商売繁盛を招きたいとの思いから、枚方宿では、陸宿に加えて、船溜まりや回船問屋、そして船宿、船上販売を考え、それなりに上手くいったのであった。

東海道53次とはよく言われるが、これは京を終点とした場合である。
天皇や朝廷が京にいるので。江戸・京間の道を格好つけて言ったようだが、その時代、京に用があるのは幕府の役人ぐらいであろうか?

実際的には天下の台所と云われる大坂や西国へ下るのが東海道で、大坂が終点であり、57次が正しい。
幕府も東海道は大坂へ至る57次であると定めていたのであった。

この東海道を真面目行き帰りしたのは徳川大名の参勤交代である。
しかし徳川大名は決して京の街へは行かなかったのである。
それは、朝廷と密談したのではないか?と幕府に疑われることを恐れ、嫌ったためである。

京を遠巻きにして、淀川べりの右岸・西国街道か、この左岸の京街道を利用したのであった。

東海道57次は53番大津の次は、伏見、そして淀、枚方、守口の順となる。
枚方宿は56番目の宿場となる。

近年この枚方宿の街並み保存が叫ばれ、「新世紀くらわんかストリート」の名称で、国土交通省近畿局と枚方地区の関係者が取り組んでいるのである。
時節に応じてイベント等も開催されている。

前置きはこれくらいにして、この56番目の宿場町、枚方宿を歩いて見ることにする。
このくらわんかストリート、枚方宿は東見附と云うところから始まる。
京都に一番近い東の端である。

この京都へは、天の川というこれも七夕伝説の川にかかった橋を渡って、向かうのであるが、今回はこの地点から大阪方向すなわち枚方宿を歩いて見ることにする。

東見附には大きな案内看板があり枚方宿全体を知ることになる。
宿場内のメイン通りはカラー舗装がなされており、道標も整備されていて、間違うことはない。

宿場の入口には趣のある虫籠窓の町屋があった。江戸期の建築だそうである。
問屋役人小野家、屋号八幡屋とある。
宿場の入り口で関所の役目も兼ねていたのであろう。
「宿場町がいよいよ始まるな」という期待が込み上げてくる。

歩きながら2つばかり旧町屋を見て、京阪電車の枚方市駅の通りにで出た。
案内所でもあれば、地図をもらおうか、と行ってみた。
場所を聞いて、やっとのことで見付け、案内図をもらってきたのであった。
こういう簡単なものでも、あるのとないのでは大違いである。

駅前通りを横切って進んで行く。
直ぐに道は左手90度にカーブする。その地点に昔は橋があったようで、安居川に掛かる枚方橋の欄干が残されている。

少し行くと道は四つ角になっている。
「宗佐の辻」と云う。茶道の表千家の創始者、千宗佐かと思ったが違うようである。
醤油屋の角野宗佐と云う人の屋敷があったのでこの名前で呼ばれているというのが正解であった。
この四つ角を右に曲がって、石碑に表示されている大坂へ向かうことになる。
直進方向は、交野、倉治、星田から生駒へ抜ける道、磐船街道である。

大阪に向かうと、直ぐに自動車道と交差する。
渡るとサティ系のショッピングセンターVVRが両側にある。
この間を抜けて、岡本町(おかほんまち)公園の前に出る。
綺麗に整備されていて、所々に「京街道」やら「枚方宿」やらの新しいサインが建てられている。
そこまでしなくても良いのに…、とも思った次第である。

公園を過ぎて、いよいよ肝心な部分に入っていくことになる。
右手にやはり虫籠窓の商家で現在も味噌を商売にしている店があった。
商品名「菊人形味噌」と書いている。
そう云えば枚方はヒラパーの菊人形で有名だった、と云うことを思い出した。

隣に枚方銘菓の菓子屋がある。「あかつき」というどら焼きメインの店である。
味噌は要らないので、このお菓子屋さんに入って、少量のお菓子をお土産に買い求めたのであった。

さらに大阪方向に向かう。
途中、虫籠窓の旧家をいくつか眺めることができる。
綺麗に整備がなされている。
寺院もある。
鉄筋で建てられていて、雰囲気にはそぐわない気がする。
常夜灯の遺物を右にみて、もうすぐ本陣である。

本陣は大阪に向かって右手にある。
残念ながら今は何もなく、跡地は三矢公園となっている。

同じような道が続く。
左手の住宅の向こうには京阪電車の線路があるが、その向こうは小高い山である。
その山の上に秀吉の作った「御茶屋御殿」と云うのがある。
淀川を眺めるには、絶好の高台だと云われるが、今回は疲れもありパスする。

問屋場跡、本願寺派の門跡御坊浄念寺、船番所跡通過して、西見附の終点へ向かうが、その手前に問屋役人木南家の大きな屋敷がある。
それを過ぎて少し行くと、船宿「鍵屋」がある。
19世紀初頭の建築物だそうであるが、そのまま残っていて、資料館として公開もされている。

早速内部を見学させていただいた。普通の旅館と云う感じで、特別なしつらえは無いが、2階は大広間になっていて、この大広間で大宴会をすることもあったのであろうかと思われる。
また地下には船が入れるところもあり、人形付の実物模型も置かれている。
伊根の舟屋のようでもある。

この鍵屋の周辺の商家、虫籠窓を備えているが、もう一つ気付いたことがあった。
それはウダツである。
徳島の脇町ほどは立派なものではないが、各旧町家の2階の軒の両側に付けられている。

鍵屋を過ぎるともう終点・西見附に着いたのであった。

かつての枚方宿のメインのイベントは大名の参勤交代であったと云われている。
南国の大名を始め西国の藩は結構利用したのであった。
それは各藩とも大坂に藩邸を持っていたからでもあろう。

藩邸で衣装を整え、人数も追加して、大坂から上って行ったのであった。
また、伏見まで直接船で来た藩は、伏見宿本陣で休憩して、そして旅装を整え陸路を江戸に向かったのであった。

藩邸のない大名は、西国街道で直行と云うことになったのであろうが、実際はどうだったのであろうか?
細かい話であるが、藩毎の大名行列の様子を調べてみたい気がする…。

全国の参勤交代の大行列の記録は加賀前田藩でとなっていて、その数4000名だそうである。
紀州徳川家も威信をかけて、大行列をしたそうだが、枚方宿の記録では最大1500名となっている。

余談ではあるが、大名行列の時に「下にぃ~、下にぃ~」と掛け声があり、見物の人々が礼をするシーンが、テレビや映画で良く見られる。
しかしこの掛け声は、徳川大名の時だけに用いられたと云われている。
枚方宿でも紀州の殿様の時にこの掛け声が聞かれたのであろう…。

紀州徳川家では、5代将軍吉宗のころから、枚方宿を本陣とした参勤交代が始まったと記録にある。
枚方宿では最上客だったようである。

しかし問題は下りであった。船に乗って枚方を通過してしまわれてはいけない。
そのためにあの手この手を使ったと思われるが、それは確かな記録としては残っていない。

人はこの枚方宿をどう見ていたのか?
元禄四年、長崎のオランダ商館長の江戸参府に加わったドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルは2度も江戸を訪れ、将軍綱吉にも謁見している。

彼の「江戸参府紀行」の中で、大阪から京までの様子に触れていて、
『昼食をとった枚方は約500戸の町では、たくさんの旅館や料理屋があり、安価で茶や酒を飲み、暖かい食べ物を食べることができる。』
と書いている。
そして、その様子に反して、
『街道の賑わいに反して、宿駅の財政は苦しく、助郷の村々も困窮するところが多いようである。』
とも書いている。

やはり、一方通行の苦しさであろうか・・?

さて、「くらわんか船」ビジネス、その解決策として、その補完になったのかどうか?
気になるところであるが、今後、改めて調査してみたいと思う。

〔完〕