雪の金閣寺、運が良ければこの景色に出会える。
雪が降りしきる金閣寺も良しとするが、雪が止んで青空に映える金閣はまた格別である。

金閣、正式には鹿苑寺舎利殿と云う。
臨済宗相国寺の塔頭であり、足利義満は譲り受けた北山の西園寺家の山荘地に、1397年、夢窓疎石の手により設計施工させたと云う。

義満が征夷大将軍の宣下を受け、第3代の足利将軍に就任した時は、まだ天皇家が南北に分かれていた時代で、足利将軍は北朝天皇から宣下を受けた。
時の天皇は空位の後、即位した後光厳天皇である。

義満は南朝の主力支配地である九州地方を攻める傍ら、北朝と幕府の足固めを行った。
寺院政策として鎌倉に習い五山の制度を定めるとともに、幕府の政庁を御所の北側、自らの邸宅に移した。
「花の御所」と云われる。
室町通りに面していたので、後の歴史家は室町幕府・室町時代と名付けている。

義満は将軍にふさわしい、豪勇の人物であったと云う。
義満は内大臣、左大臣など官位の昇進を続け、武家の最高位である源氏長者に初めてなり、名実ともに公武両勢力の頂点に昇り詰めたのであった。
この奢りが後に不幸を招くことになるのであるが…。

この時が室町幕府と義満政権の絶頂期に昇り詰める花道であったが、南朝の存在だけが気がかりであった。
そこで、その南北朝の解消に力を注ぐことになる。

1392年には南朝勢力が全国的に衰微したため義満は大内義弘を仲介に南朝方と交渉を進め、双方が交互に天皇に即位する事を条件として、和平を成立させた。
南朝の天皇は後亀山天皇、しぶしぶ保持していた三種の神器を北朝に渡した。
そして南朝が解消され、南北合一されたことになった。

58年にわたる朝廷の併立は解消されたことになったのではあるが、しかし南朝方が再び皇位を得ることはなかった。
政治の場面での違約はよくある話であるが、南朝方は黙っていず、後南朝なる形をとるのではあったが…。

その後、義満は中国唐の時代から途絶えていた、中国明貿易を開始し、日本の近代化にも力を注いだのであった。

金閣寺創建の頃、将軍職は既に嫡子の義持に譲ってはいたが、義満は金閣寺を政庁とし、実権は握っていた。

金閣舎利殿は三層構造で、下層が寝殿造り、中層が武家造り、上層が禅宗様で、天辺に鳳凰となっていて、これは公家の上に武家があり、更にその上に、義満がいるということを表しているそうである。

義満はこの金閣寺/北山第で国家的宗教行事なども執り行った。
政治も宗教も義満の手にあり、唯一無二の支配者、まさに天皇を超える存在になっていたのである。
世間では秦の始皇帝を目指しているかの様であると言われた。

金閣寺には紫寝殿や殿上の間もあって、さながら御所がここに移ったかの様相であったそうである。

余談であるが、義満が建てた相国寺には、当時七重の塔があって、その高さは東寺五重塔の2倍近くあったというが、それも北山第に移築させたと云う。
この大塔も義満の権勢の象徴になっていた。

義満は四代将軍義持よりも、義持の異母弟の義嗣を大いに可愛がっていて、後小松天皇の北山第への行幸の折りの盃の順は、天皇、次に義嗣、その後に公卿の順で、義嗣は親王に準ずる扱いをさせ、更に内裏にて元服式を執り行うという結構無茶なことを平気で行ったそうである。

しかし、義嗣「親王」が誕生した翌日に、義満はにわかに発病して、山門・寺門をはじめ顕密五山で加持祈祷が行われたが、その甲斐も無く、一週間を待たずに亡くなってしまったとのことではある。

義満の皇位簒奪は、その道の半ばで義満の急死という偶然に助けられて、防がれたのであった。

しかし天下を謳歌している真っ最中に病気になり、急死するものであろうか?
これには、とある手による暗殺とのことも考えられるが、それは後日とする。

将軍義持も父の義満を嫌っていた。
義満が死去した後、金閣寺は正室北山院日野康子が住むところとなったが、
康子の没後は舎利殿/金閣だけを残して、義持の手により全て取り壊されたと云う。

また義満の死後は、自らのカラーで政治をすることになった時、幕祖尊氏が作った頃の幕府に戻し、更に明貿易も中止してしまったと云う。

義持は子の義量(よしかず)を次期将軍に立てたが、早死にしてしまい、再度将軍を立てる必要ができ、義持の弟4名を候補者とし、石清水八幡宮にて籤(くじ)を引いて決めたそうである。
籤と云えばいい加減な感じがするが時代が時代、神のご宣託に従うと云うことであり、そう不思議なことでもない。

籤に当選したのは天台宗開闢以来の逸材と云われた天台座主義円であった。
僧籍から還俗させ、元服し官位が与えられ、翌年第6代将軍義教となった。
この義教は、九州平定や関東平定など、強烈な個性でやり遂げた。
更に出身の比叡山をも武力で囲み、僧たちに自決・炎上させたりもした。
また日明貿易も復活させ、幕府の中央集権を義満時代のように高めたのであった。

しかし義教は苛烈な性格で、些細なことでも激怒し厳しい処断を行った。
武家や公家のみならず商人までも、罪あれば殺してしまう恐怖政治を敷いた。
悪御所と云われ、最期は守護の赤松満祐(みつすけ)に、関東平定の祝宴の席で殺されてしまったのであった。

次期将軍に義教の子、義勝が立てられたが、1年で早世してしまい、その弟8歳の義政が立てられ、元服の年に将軍に宣下された。
義政は当初は、義満や義教の政治体制・権力を復活させようと努力したが、取り巻きの管領、守護や正室富子の実家日野家の力が強く困難を極めた。

当時の管領や守護大名の家には家督争いが絶えなかった。
常にどこかで紛糾しており、将軍が最終決断するのだが、政治とは直接関係ないところで決められた。
云わば、良きにはからえ状態であった。

ことは管領畠山家の家督相続から起こった。
京都の上御霊神社に立てこもった畠山長政を畠山長就(ながなり)が襲ったのである。
長就方には山名宗全が加担したが、長政方には頼みの細川勝元がこの段階では動かなかった。
この戦いでは長政方が敗戦したが、これで終わらなかった。

将軍家でも継承争いが時を同じくして起こっていたのであった。
子がない義政は出家していた弟、義視(よしみ)を還俗させて後継者と決めていた。
そこに正室日野富子が男子義尚(よしひさ)を出産し、それを将軍にしようとした。

義視の後見には管領を務めた実力者の細川勝元を決めていた。
一方、日野富子は実力者の山名宗全に義尚の後見を依頼した。

応仁の乱の勃発である。

戦いが始まると将軍義政は早々と室町政庁を離れ、近くの別の屋敷に移ってしまった。
政庁には日野富子や義尚、その取り巻きが残り、政務を行ったという。

富子は傲慢な悪女のように云われているが、財政的なセンスは抜群で、戦時中であっても、それを上手く利用して財産を作り幕府を支えたと云う。
また天皇家も支援する余裕もあったと云う。
もし富子が只の傲慢なだけであったなら、幕府はこの時点で倒産であった。

戦いは最初は京都在住の武家や豪族が敵味方に分かれて戦った。
山名宗全に味方するものは西軍、細川勝元に味方するものは東軍と云われ、両大将の屋敷が、堀川を挟んで対峙していたことがその所以である。

京都の戦地には約27万人の戦闘員が集まったという。
この後の時代の、天下分け目の関ヶ原の戦いでは16万人、大坂夏の陣では23万人であるから、それ以上の人員である。
もちろん金閣寺も西軍の陣所になった。
京都の寺という寺は陣所になったので、炎上は必至であったのは頷ける。

また戦いはまたたく間に全国いたるところへ広がった。
それは日頃から鬱積していた隣国トラブルが、一挙に噴き出したと云うことであろう。
申し訳ないたとえであるが、スポーツの全国大会の予選が各地で行われているような様相であったと思われる。

この時から武家や豪族は、戦うことへの生きがいと失望、それに財政難を繰り返しながら、数年間の戦いが続くのであった。

歴史上でもこの戦いの意義・意味は曖昧である。
ただ京都が焼け野原となり、都や幕府に魅力を感じなくなった武家達も去り、国全体が厭世状態となり、その後の戦乱・戦国の世に繋がったのは、間違いない。

当初は戦闘も勢いがあった。
そこここで戦いが勃発した。
しかし数年間続いた戦いも、山名、細川ともが病没するとこう着状態となり、おまけに将軍も義政から義尚に譲られると、自然消滅状態となり、両軍とも軍を引いてしまい、終結となったということである。

しかし、この間、地方では隣国との領土の奪い合いが真剣に行われていた。
その結果が戦国時代を戦い抜くベースとはなったが、主役は入れ替わり、その家来衆や浪人衆の中から生まれてきたのであった。

さて、政務を富子と将軍義尚に任せていた義政であるが、やはり大したことはしなかった様である。
一説によると酒色や風流事に溺れていたと云う話もある。

応仁の乱の後、義政は東山にある乱で荒廃した浄土寺の跡地(現在の銀閣寺)に東山殿を建てることになる。

当時は応仁の乱が終わった直後のことで、都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に臨時の税や労役を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な生活を送ったと云う。
しかし、富子はこれには一切の資金は出さなかったと云うことである。

義政は完成を待たずに移り住んだと云う。
銀閣には銀箔が張られる予定だったと云うが、財政不足並びに完成を待たずに義政が死去したため、そのままになってしまっている。

東山殿は義政の死後、相国寺の塔頭となり、慈照寺と改められた。
尚、戦国時代末期には前関白近衛前久の別荘にもなったが、前久の死後は再び相国寺の塔頭として再興されたと云う。

足利将軍はこの後は衰退の一途を辿り、16代義昭まで続くことにはなるが、戦国武将たちに利用される価値はあったものの、主役として歴史の表に出てくる場面はなくなったのであった。

まつりごと、政治と云うものは、個人や血縁だけで支えて行くものではなく、家臣や同盟者を含めた盤石の体制で支えなければ、かえって混乱を起こすという手本になったのではないかと思われる。
後続する武将の方々には、良く心していただきたいものである。

「初雪に 栄華を偲ぶ 金の堂」

〔きノ段 完〕