「きぬかけの道」は京の町の北部、京都盆地が北山に掛かる辺りにある、世界遺産の3寺、真言宗御室派仁和寺、臨済宗妙心寺派龍安寺、相国寺塔頭の金閣寺を結ぶ道路を名付けたものである。

「きぬかけ」とは、平安の時代、仁和寺を創建した宇多天皇が夏であるにも関わらず、雪が見たいとわがままを言い、大掛かりな仕掛けで山に白い衣を掛け、その積雪の風景を現出したことに因んだものである。

その衣を掛けられた山は、この道のほぼ真ん中付近にあるお椀を伏せたような形の山で、その謂れから衣掛山あるいは衣笠山と云う。
今回は、その世界遺産を結ぶ「きぬかけの道」を歩いて見ることにした。

スタートはこの道の西の端、仁和寺二王門である。
先ず仁和寺であるが、この二王門を始め殆どの建造物が重要文化財である。
都合14棟もある。

そして一つだけ国宝の建物がある。
それは、伽藍中央奥に位置し、気高い風相の金堂である。
それもその筈、江戸初期に御所の紫宸殿を移築したものであるからだと言える。
但し寺院らしく見せるために、屋根を桧皮葺きから瓦葺きに変えてはいる。

御室桜と云う桜がある。
ここ仁和寺に咲く桜で、八重桜である。
境内は堅い岩盤であるため、根が浅く桜木の背は低い。
そこここの染井吉野の桜が終わりかけたころに咲き始め、それから満開となる。
桜の季節の最後を飾る桜として親しまれている。

もう一つ仁和寺にかかわる名随筆がある。
吉田兼好の徒然草に書かれている『仁和寺にある法師』という話である。

『 仁和寺のある法師が八幡の石清水八幡宮に念願の参拝をした。
帰ってきて、仲間の僧達に、
「石清水にお参りして来た、大変、尊い神社であった」
「そもそも、お参りする人ごとに、山に登っていくのはなぜかと、思ったが、神社にお 参りするのが、本来の目的なため、そのまま帰ってきた」
顔を見合わせた他の僧達、なぜ、出かける前に聞いてくれなかったのかと思った。
山の上に本殿があると言うことを…。

独りよがりな行動は、いい結果を招かない。
ちょっとした事でも、経験者に相談したほうがいい』
このような教訓話であり、高僧を戒めているのが面白い。

仁和寺を後に、きぬかけの道を東へ進める。
道の両側は普通の住宅地である。
道は大きく左へカーブして、少し行って森に行き当たり、右へ大きくカーブする。
この森の中には龍安寺(りょうあんじ)がある。
そして、向かいの道の右手には住吉大伴神社がある。
この神社は元々大伴氏の氏神、伴神社に住吉大神が合祀された神社で、余り知られていないが、由緒正しき神社である。
しかし、なぜ海の神様住吉社がここに?と云う疑問は残る。

暫く行くと左手に龍安寺への入り口が見えてくる。
その入り口から龍安寺を訪れてみることにする。
チケットを買って、そう広くもない参道を庫裏、方丈へ向かう。

もう何十年も前に来たように思うが、全く覚えていない。
早速、方丈庭園の縁側へと向かう。
龍安寺の石庭として名が知られている庭である。
しかし、思ったよりも狭い。
幅20m奥行き10mぐらいか?

多くの観光客が濡れ縁に座り込んで、庭を眺めていて動かない。
座って眺める場所もないので、後ろを動き回り、様々な角度から眺めてみた。
15の石が置かれていて、どの角度から見ても全ては見えない設計であると云われているが、数えてはいない。

方丈廊下を一周して、朱印を頂き、建物を後にした。
帰路は、池の周りを半周して帰る仕掛けになっている。
龍容池(りゅうようち)という大きな池であり、このような池があるとは全く知らなかった。

龍安寺は応仁の乱の東軍の大将、細川勝元が開基の寺である。
かつては塔頭が21もある大きな寺であり、当時は池を巡る回遊式の庭園が有名であったと云われる。オシドリもいたと云われている。
方丈は江戸時代の火災で焼失後、塔頭の方丈を移設したと云う。
以来その石庭の方が知られるようになった、とのことである。

龍安寺を後に、東北方向へきぬかけの道を進む。
しかし、空模様がおかしい。
ポツリポツリと、雨粒が落ちてきたが、まだ大したことはなさそうである。
暫く行くと、右側に学校の体育館らしき建物、左側は林の峠道のようなところに差し掛かる。
そしてそこを軽く上り詰め下ると、道が両側にパッと広くなる。

その開けた場所には、左手に堂本印象画伯の美術館と居宅がある。
確か京都会館のステージの緞帳に「印象」ってサインが入っていたような?
これくらいしかわからないので、パスしよう。

右手に大きな学校がある。
立命館大学である。
この学校の向こう側に等持院と云う足利尊氏の菩提寺がある。
立命館の構内を通り抜けると行けるので、ちょっと寄り道をしてみよう。

学校の裏の通用門を抜けて、暫く行くと右手に等持院へ至る道がある。
その道を辿って行くと広い場所に出る。
そこに大きな銅像が建っている。
日本映画の父と云われるマキノ省三氏の立像である。
しかし、あまり良くは知らないので、これもパス。
等持院の寺門へと向かう。

等持院は足利尊氏の開基である。臨済宗天龍寺派の寺である。
もともとは京の市中に建てられたそうであるが、この場所に引っ越したと云われている。
ここには尊氏の墓、そして室町将軍歴代の木像、それにプラスして家康の木像も祀られている。
方丈庭園は池の周りを巡る回遊式で小規模であるが、方丈の対岸の小高いところに茶室清蓮亭もあり、雰囲気は良好である。
この庭園と後ろの立命館との境界には、異常に背丈の高い木が植えられている。
この庭にはそぐわない鉄筋の学舎を隠すためであろう…。

今にも雨が降りそうである。
雷も近づいて来たようである。
元のきぬかけの道に早く戻ろう。

ここら立命館のあたりが、きぬかけの道の中間点ぐらいかと思われる。
ほっと一息と云うところだが、上空に雷が近づいて来ている。
しかし、稲光と雷鳴の間にまだ10秒ぐらいの間隔がある。

と思ったのもつかの間、大粒の雨がこぼれて来た。
そして、瞬く間にバケツ降りとなった。
コンビニがあったので、その軒先に避難避難…。

雷が凄い。頭上で炸裂しているようである。
雨もますます凄い。間近の衣笠山が見えない。
一歩も動けない状態となってしまった。
万事休すである。

30分ぐらいお邪魔しただろうか?
雷は遠ざかった。
雨はまだ強いが、再スタートすることにする。
風の中、濡れながらとなったが、止むを得ない。

また雨が強くなった。歩いていられない。
ファミレスがあったので、その駐車場に逃げ込んで、またもや暫くの雨宿りである。
こんなことを繰り返しながら、金閣寺の近くまで来た。
雨はやっと小止みになっている。

境内の池(鏡湖池)畔に金閣(舎利殿)を持つ鹿苑寺は足利義満の開基である。
義満はここ北山の西園寺家の山荘地を譲り受け、1397年、夢窓疎石に設計・施工をさせた。
金閣寺に来たついでに、少し義満の話に触れることにする。

義満が第3代の足利将軍に就任した時は、まだ天皇家が南北に分かれていたいわゆる南北朝時代である。
義満はこれを解消しようと全力を注いだ。

金閣寺創建の頃、将軍職は既に嫡子の義持に譲ってはいたが、義満は金閣寺を政庁として、まだ実権を握っていた。

金閣は三層構造で、下層が寝殿造り、中層が武家造り、上層が禅宗様で、天辺に鳳凰となっている。
これは公家の上に武家があり、更にその上に、義満がいるということを表しているそうである。

義満はこの金閣寺(北山第)で国家的行事・宗教的行事などを執り行った。
政治も宗教も義満の手にあり、唯一無二の支配者、まさに天皇を超える存在になっていたのである。
世間では、秦の始皇帝を目指しているかの様であるとささやかれていた。

金閣寺には、紫寝殿や殿上の間もあって、さながら御所がここに移ったかの様相であったそうである。

余談であるが、義満が建てた相国寺には、当時七重の塔があって、その高さは東寺の五重塔の2倍近くあったというが、それもここ北山第に移築させたと云う。
この大塔も義満の権勢の象徴になっていた。

義満は四代将軍義持よりも、義持の異母弟の義嗣を大いに可愛がっていて、後小松天皇の北山第への行幸の折りに、席次となる盃の順は、天皇、次に義嗣、その後に公卿の順で、義嗣をば親王に準ずる扱いをさせ、更に内裏にて元服式を執り行うという結構無茶なことを平気で行った。

しかし、義嗣「親王」が誕生した翌日に、義満はにわかに発病して、山門・寺門をはじめ顕密五山で加持祈祷が行われたが、その甲斐も無く一週間を待たずに亡くなってしまったとのことではある。

義満の皇位簒奪は、その道の半ばで、義満の急死という偶然に助けられて、防がれたのであった。

しかし、天下を謳歌している真っ最中に病気になり、急死するものであろうか?
これには、とある手による暗殺とのことも考えられるが、それは後日とする。

義満が死去した後、金閣寺は正室北山院日野康子が住むところとなったが、康子の没後は金閣だけを残して、義持の手により全て取り壊されたと云われる。
金閣寺にはこのような場所であった。

金閣寺を眺めている間に雨も上がって、太陽が覗いてきた。
と同時に、このきぬかけの道、3大世界遺産を巡る探歩は踏破、終了となった。

最後に余談である。
実はこのきぬかけの道、金閣寺の先の北野天満宮が始点・終点であるという説もある。
今回は金閣寺までと決めたので、天神さんが怒って、雷を見舞ったんであろうか?
そんな気がしてならない…。

〔完〕