京都の嵐山の北、奥嵯峨にある愛宕街道はかつては愛宕山の山頂にある愛宕神社への参道として賑わった街道である。

歴史はかなり遡る。
この神社は平安京のできるまだ100年も前、京都開拓の祖と云われる秦氏によって愛宕権現を祀る白雲寺として創建された神仏習合の寺であった。
東の叡山と同様に、貴族・庶民に信仰されたのであった。

ローカルな話であるが、愛宕神社の「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれたお札を、京都のお店でよく拝見する。
愛宕神社は防火の神様として、市民の方に根強く信仰されているのである。

愛宕街道は、年に一度、賑やかになることがある。
それは7月31日夜から8月1日早朝にかけて参拝する「千日詣で」の時である。
この時は数万人の参拝者で参道・境内は人で溢れる。
と云っても愛宕山は京都では1000m近くの高い山、登山道4kmを皆が登るのである。
この時にお参りして、頂いたお札は向こう千日間の防火の御利益があると云われているからである。

また、愛宕神社は織田信長の本能寺事件の直前に、明智光秀が山頂で、俳諧連歌の会を催したことで、歴史ファンには良く知られている。
光秀が発句にて詠んだ歌、
『ときは今 あめが下しる 五月哉(さつきかな)』
の俳諧が信長を襲った決意であるとの無理からの説明が、勝者秀吉の新太閤記などに書かれているが、勝者の勝手な歴史であろうか?

愛宕神社はこのくらいにして、愛宕街道を探歩してみる。

愛宕街道の始点は、奥嵯峨の鹿の啼く小倉山の麓、二尊院や滝口寺・祇王寺から北に行く道に、大覚寺からの道が東から交差して、一本となる地点である。
この街道を西北に進む。
虫籠窓を配した町屋や商家が所々に見られる。京風の食事処、甘味処そして土産物屋が軒を並べている風情のある通りである。

少し行くと左手にあだし野念仏寺に至る石段が登っている。
これを辿ることにする。
「あだしの念仏寺」正式名称は、華西山 東漸院 念仏寺である。

あだし野は、東山の鳥辺野、北の蓮台野と並んで、葬送の場所であった。
人間はかなさを詠う時には、「あだし野の露・・・」とよく使われたりする。

このあだし野念仏寺の起こりは、平安時代、弘法大師が、この付近にあった庶民の野ざらしの遺骸を埋葬したことに始まるという。
その時の寺の名称は五智如来寺と云い、大覚寺の系統であった。
弘法大師は、千体の石仏を付近から集めたと云う。

時は経過して鎌倉時代、浄土宗の開祖法然上人が、この寺を念仏道場としたことから、念仏寺と云うようになり、その名が今も使われてる。

寺は、興隆・荒廃の波があるもので、この寺もそうであった。
江戸時代に本堂などが再建された。

現在は8000体の石仏が所狭しと並んでいる。
これは、明治時代中期に、あだしの付近に散乱・埋没していた無縁仏を、地元の人たちが供養のために集め、釈迦の説法を聞く形に並べたものである。
賽の河原に模しているので、「西院の河原」と名づけられた。
念仏寺の現在の特徴がようやく出来上がったのであった。

この念仏寺、京都が舞台のテレビのミステリーなどで良く登場するので、ご承知の方も多いと思われる。

このあだし野念仏寺、浄土宗の念仏道場であるということから、庫裏の玄関口に、教訓めいたものが掲げられている。

役には立つと思われるので、2つばかり紹介したい。

壱「俗世間 つもりちがい十ヶ条」
一、高いつもりで 低いのは 教養
二、低いつもりで 高いのが 気位
三、深いつもりで 浅いのは 知識
四、浅いつもりで 深いのが 欲
五、厚いつもりで 薄いのは 人情
六、薄いつもりで 厚いのが 面の皮
七、強いつもりで 弱いのは 根性
八、弱いつもりで 強いのが 我
九、多いつもりで 少いのは 分別
十、少いつもりで 多いのが 無駄

~念仏寺掲示物より転載~


わらわれて わらわれて えらくなるのだよ
しかられて しかられて かしこくなるのだよ
たたかれて たたかれて つよくなるのだよ
小供しかるな来た道だ 年寄り笑うな行く道だ

~あだしの念仏寺掲示物より転載~

たまには、このような話は、自らの方向修正について有益かと思われる。
お坊さんの説教を面白おかしく聞かせてもらったような気になって、あだし野念仏寺を後にしたのであった。

引き続き愛宕街道を進んで行く。
道は緩やかな登りである。
道の両側には、同じような古民家・商家が続く。
程なく嵐山高雄パークウエイの道路下を潜る。
この辺りからは、店はもう見られなくなり、訪れる人もあまりいなくなったようだ。

更に行くと、家の屋根が商家風の瓦葺きから農家風の茅葺きに変わってくる。
緑の苔までもむしている屋根もある。
京都市内でこのようなものが見られるとは驚きである。

この辺りは、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されていると云うことで、成る程と頷いた次第である。
程なく朱塗りの鳥居が現れる。愛宕神社の鳥居であろう。
この先は人家も無くなるようである。
道が2つに分かれている。左は保津峡に達する道である。愛宕街道は右に進む。

左側は山、右側は少し高いところに自動車道が走っている。
この自動車道と並行して進んで行く。

暫く行くと、左手の山に寺院が現れる。愛宕(おたぎ)念仏寺という。
この寺もミステリーに登場する寺である。

愛宕念仏寺は近代になって伽藍共々引っ越した寺院である。
元々は、奈良時代に、山城国愛宕(おたぎ)郡愛宕郷に建てられていた真言宗の寺であった。
現在の場所で言うと、東山区の清水寺と鴨川との間ぐらい、六波羅蜜寺の辺りで、愛宕寺(おたぎでら)と云った。

平安時代は、鴨川の洪水で流失したり、兵火で焼失したりして、荒廃していたが、10世紀末に、叡山の僧、伝燈大法師千観内供が再興した。
千観内供は生涯念仏を唱えたため、念仏上人とも呼ばれた。
寺の名も愛宕念仏寺と云われるようになった
七堂伽藍を有する天台宗の大寺院となったのであった。

しかしその後も戦火、火災で荒廃すること、幾度かであった。

近年、大正の時代になって、この愛宕山の麓に大移築された。
しかし、その後もパッとしなかったのである。

第2次大戦の戦後の時代になって、再興を願う天台宗総本山の比叡山は、仏像彫刻家に新しい住職を委嘱したと云う。
住職の名は西村氏、今から55年前のことである。

この西村住職、寺院再興のために新しいイベントを始めた。
それは、参拝する人たちに羅漢を彫刻してもらい、寺の境内を埋め尽くすと云う大作戦であった。
「昭和の羅漢彫り」と云う彫刻教室を開いたりして力を入れたのであった。

当初は、五百羅漢の目標であったが、順調に進み過ぎて、現在は千二百体の羅漢になったと云うことである。

この千二百羅漢、境内にところ狭しと整列している。
自分に似た顔、親兄弟に似た顔、知り合いに似た顔、探してみては如何だろうか?

愛宕街道はこの寺の山門前で先ほどの自動車道と合流する。
この地点が愛宕街道の終点である。
この先にはトンネルとなっている。このトンネルを抜けると清滝という清流の川べりに至り、愛宕山への表参道はそこから始まるのである。

〔完〕