「・・街道」や「・・道」という場合、どこそこへ行く道すなわち目的地を指すのが一般的であるが、街道を尋ね歩いているうちに、その道の用途や様子を表す云い方もあると云うことに気付いた。
例えば、鯖街道、ラーメン街道、哲学の道、山の辺の道という風に、何かをする、或いは何かがある、或いはどんな所にあると云うことを示す街道・道も多くあることに…。

街道や道には大きく分けて、2種類あることになるが、更に、「だれだれが利用した道」と云う云い方もある。

「法隆寺街道」はこの場合にあたる。
「筋違(すじかい)道」とも云われる。
また、「太子道」とも云われる。
3つの名前を持った道である。

法隆寺街道はその名の通り法隆寺へ行く道である。
何処から行くのかと云うと、それは飛鳥にあった宮からである。

筋違(すじかい)道とは何か?
奈良時代になって平城京から南の飛鳥や吉野へ行く南北の新道が3本設けられた。既にあった盆地の東山際を通る「山の辺の道」、それと盆地の西を通る法隆寺街道、この道の間、即ち盆地の中央に、東から、「上ツ道」、「中ツ道」、「下ツ道」と云う街道が、平城京から真南に向けて設けられた。
法隆寺街道も含めて、合計5本の道となったのである。
法隆寺街道は他の道に比べて斜めになっていることから、筋違道と云われるようにもなった。

太子道とは何か?
文字通り聖徳太子が飛鳥の宮と法隆寺・斑鳩の宮とを往復したことを指している。

ある日、この法隆寺街道を辿って見た。
起点は法隆寺、住宅街の間を南へ歩く。
程なく飛鳥川に出る。街道は飛鳥川畔と付かず離れずで進んで行く。
一部、聖徳太子に因んだ公園とかもあるが、あまり発見はない道である。

田圃の畔、住宅街の中を進む。
途中には古式豊かな神社がいくつか見かけられた。
神社の境内に太子腰かけと云う石もある。
太子が通った道であることは間違いがないようだ。

近鉄電車田原本駅が近づくに連れて、高速道路の下をくぐったり、大きな道を横切ったり、車との係わりが賑やかになってくる。

更に歩いて藤原京まで到達するのが美しい形なのだが、しかし沿線の風景は変わらないし、見るべきものもなさそうである。
この先は別の機会に預けて、法隆寺街道探索は一旦終了とした。

さて聖徳太子…、
良く御存じの話であるが、聖徳太子は、後世に名付けられた名前で、存命中の名は『厩戸(うまやど)皇子』と言う。当時、厩戸という地名があり、それに基づくものと云われる。別名、豊聡耳(とよとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれ、古事記では上宮之厩戸豊聡耳命ともされている。

聖徳太子は用明天皇の第二皇子で、あの蘇我氏とは血縁関係。幼少の頃から、神童と呼ばれ、生涯を通して、その能力は凄いものであったと云われている。
我が国の有史以来、最高の有能な政治家であったとの評価もある。

優秀であったのは間違いがないが、叔母推古天皇は、天皇の皇子ではなく、甥の聖徳太子を皇太子としたため、その理由・必然性を述べるために、かなりの誇張があったとも推察されている。

ともあれ、初の女帝、推古天皇の時、聖徳太子は皇太子となり、そして摂政として、大臣であった蘇我氏と政治を切り盛りしていたのであった。

前置きが長くなった。
ここに小野妹子と云う人物がいる。
琵琶湖西畔・大津の小野郷を出所とし、海外にも通じている優秀な官僚である。
海外と云っても中国や朝鮮半島の情勢のことである。

妹子は今で言うと、外務大臣のような仕事をしていた。
朝鮮半島の「任那(みまな)国」とは、親交を持っており、半島の他国との争いには口出し、手出しをしていたし、中国情報も多数集まっていた。

さらに、我が国は古代から養蚕の国、絹を求めて大陸からの買い付けが、常時往来していて、情報も豊富に入って来てはいた。

その頃に妹子が入手した情報によると、中国が隋国と云う名での統一国家になったと云うことであった。
御承知のように、中国が統一されたのは漢王朝以来。その後、三国志の時代を経て分裂時代を過ぎ数百年ぶりのことである。

余談であるが、中国は万世一系の世襲制の王国ではない。王朝は前朝を滅して入れ替わるのが通例である。
しかし儒教の国であるので、禅譲と云う方法が美しいらしく、前朝に仮の皇帝を立て、譲ると云う方法が用いられる。
この時もそうであった。

朝鮮半島の諸国は、早速に慶賀の朝貢使を派遣すると云う。
妹子は、太子に進言した。
「半島諸国は、この度の隋・文帝を畏れて貢物をする様な事で…。中国の内紛が無くなった今、外へ攻めて来るのは必定と考えまする。我が国は如何すべきでありましょうや?
結果、我が国だけが孤立するのは誠によろしからぬと思い至りました。この上は早速、形だけでも朝貢使の派遣が得策と思いまするが…」
「それは一理ある。しかし、軍船での訪隋はまずかろうて…。船を造らないとな…」
「お任せあれ…。図面は既に出来あがっておりまする。後は、どなたを使わされるかでございまするが…。」

第一回の遣隋使が派遣された。
わが国の長距離航海技術はまだなかったので渡来人に負うところが、大きかったが…。

航海の安全を願って住吉大社に祈願し、大社の横の細江川から出発した。
隊長は小野妹子。先ず瀬戸内を航海する。九州まで無事到着すれば慣らし航海は完了である。
玄界灘・東シナ海へ乗り出すと云う航路が取られたが、大抵の場合は不具合が発見されるので、途中で修復と云う風にはなったのであるが…。

妹子は海路・陸路で無事に長安に到着して、歓迎を受けたという。
相手は大国中国、我が国からの献上品の数倍もの下賜品を受け取り、無事帰って来たと云う。
西暦600年の頃のことであった。

しかし、朝鮮半島や大陸の情勢は目まぐるしく変わる。
わが国の親戚国、任那国は消滅しようと云う段階になった。
満州に立国する高句麗国が力を持って来て、半島の侵略と中国本国への侵略をたくらむまでになっていた。

大陸隋の方は文帝の子、煬帝(ようだい)が帝位についた。と同時に兄弟たちを殺してしまったと云う。
そのいきさつを見た人々は、文帝をも殺したのではないかと疑ったが、それはさておき、煬帝は勢い激しく、半島までも手中にしようと高句麗攻めを行っていた。
そうなると我が国までもが侵略される恐れがある。

再び妹子、
「大陸情勢が良くありませぬ…。再び、朝貢が必要と思いまするが…」
太子は内政で忙しく、それどころでは無かったが、多くの政務処理を並行して行うことができる太子、そこで一計を案じた。

「かの国は儒教の国、我が国は仏教の国へと移行中、仏教思想を使おう。中国と我が国は違う、対等であると伝えてやろう」
と考え、今度は以下の書状を持たせ反応を見るべく妹子を隊長として、2度目の遣隋使を派遣した。

『日出處天子致書日没處天子無恙云々』(隋書東夷伝より)
(日出づる所の天子、日没する所の天子に書を致す。つつがなきや?…)

この書状を見た煬帝、激怒したと云う。
そして、妹子を軟禁した。
煬帝を激怒させた理由は、中国は日没する国との表現、そして日本の国王が中国にしかいない筈の天子を名乗っていると云うことであったと云われている。

しかし本当の理由はこうである。
この時、隋は高句麗と戦争状態に入っていて、煬帝は日本との関係をどうすべきか悩んでいたのであった。
そのための日本の扱いについて、値踏みをしていたのであった。

何回もの取り調べに応じ、妹子はあることないことを滔々と喋ったと云う。
内容の真偽の程はともかく、倭の国にこんな有能な外交官がいると云うことに驚き感激し、一流国の判定をしたと云うことであった。
今後も、高句麗や半島と戦う上で、日本との友好関係が得策との判断がなされたのであった。

妹子の帰国の際には、煬帝は裴世清らを日本に同伴させ、親交を深めるべくの振舞をさせたのであった。

送って行って、また送られてを何度か繰り返したそうである。
この急接近により、我が国と隋の交流が始まり、隋の進んだ文化が直接入ってくる様になった上に、我が国の外交上の地位も著しく向上したと云う。

それが平城京を中心とするシルクロード文化へと繋がって行ったのである。
太子の計略が、まんまと成功したのであった。
外交は押す時は強気に押す。
現在もこの精神が受け継がれているだろうか?

妹子の功績、またこの人材を活用した太子の功績は極めて大きいと思われる。
太子が当初目論んだ大陸との対等外交が開けたのであった。

尚、蛇足ではあるが、妹子の子孫には、六道珍皇寺冥土井戸の小野篁、文人の小野道風、美人の誉れ高い小野小町などがいる。

「玄海の 荒波越えて 至る国
倭国文化に 花開かせる」

〔完〕

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