京都の祇園、東大路と鴨川との中間あたりを南北に通っている花見小路、文字通り華やかで、沢山のことが発見できそうな通りである。

花見小路は栄西禅師の創建した臨済宗建仁寺の北門が南の起点である。
それは当然のこと…、明治の廃仏稀釈で寺域が狭められるまでは建仁寺の境内であったのだから…。

この花見小路を建仁寺から北上することにする。
すぐ右手がJRAのWINS京都、耳慣れない人には何だと思われようが、中央競馬会の場外馬券売り場である。
土日には、新聞と赤ペンを持ったファンの方で一杯となる所である。
その続きが祇園甲部歌舞練場、折しも「都をどり」が開催されていた。
時間が合えば後で見てみることに…。

その先しばらくは祇園のお茶屋・置屋の店が続く。
このお茶屋街は明治7年に祇園甲部お茶屋組合が建仁寺跡地7万坪を買い上げ、花街として整備したと云う。
しかし最近は京料理や茶房の店も目立つようになり、メニューやら看板が並び、落ち着きには欠けるが、そぞろ歩きの気分を楽しませてくれる。

間口はみんな狭い。ウナギの寝床と云われる京町屋である。
あの豊臣秀吉が京都の街を支配・改造した時に町屋に税を要求した。
間口の広さで税額を決めたそうである。
町人の智恵で間口を狭くしたとも云われる。

更に北へ進んで四条通へ出る右手前、ご存じ朱色の壁のお茶屋一力亭である。
あの大石内蔵助が仇討を隠すために遊び呆けたと云う謂れがあるが、それは歌舞伎の作りごとかと思われる。

四条通りを北へ渡るとガラッと一転する。
路地も含めてスナックやらの歓楽街である。夜ともなればそこここからカラオケが聞こえてきそうである。

更に進むと白川という川を渡る。
綺麗な川である。水流もさることながら川岸の桜が綺麗である。
桜の隠れた名所の感じがする。
川に面した座敷から花を愛でるのも、この季節の一興であろうと思われる。
この辺り一帯は祇園新橋と云われる。歴史的街並み保存地区でもある。
この白川べりを散策して見る。桜の他にも見るべきものがあった。

明治生まれの文豪、吉井勇の歌碑が川べりにある。
『かにかくに 祇園はこひし 寝るときも
枕のしたを 水のながるる』
吉井は敏腕女将磯田多佳の「大友」というお茶屋を常宿にしていたと云う。

ちなみに、この女将の姉は先ほどの一力亭の女将だったそうである。
大友には、夏目漱石、谷崎潤一郎、石川啄木ら文豪が訪れたと云われる。
この吉井勇を偲んで毎年11月に「かにかくに祭」が行われると云う。

吉井勇の作で古い方ならどなたでも良くご存じの歌がある。
作詞は大正4年であるが…、

『いのち短し 恋せよおとめ
赤き唇 あせぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを

・・・・・  ・・・・・ 』

更に北へと進む。
それから先は普通の路地の様な通りになる。
程なく三条通りに達する。ほぼ1kmの行程の花見小路であった。

時間ができたので、先ほどの歌舞練場へ戻ることにする。
その前に隣の縄手通りにある「壱銭洋食」の店を覗いてみた。
店頭で焼いている。見てみると、溶かした小麦粉を鉄板上に円形に広げ、その上に様々な具を積み重ね、最後に生玉子を乗せて焼き上げ、最後に包み込み、ソースをかける。
食して見ると、オムレツのような風味がした。

歌舞練場にて聞くとチケットがまだあると云うので、入って見ることにした。

祇園甲部歌舞練場の内部は古色豊かである。
それもその筈、元はと言えば建仁寺の塔頭、清住院が歌舞練場として舞台をしつらえられたものである。
大正2年に現在の場所に移転し、昭和に3年間の大修理を経た後、続けられていると云うことである。

何と今回の公演は139回目、その歴史がしのばれる。

ちょっと肩苦しい話であるが、 明治4年、京都府が設置され、その時の副知事、槙村正直が考え出したのがこの「をどり」である。
京都の復興のため、京都万国博覧会を企画し、その万博に余興として花を添えることを考え、現在の一力亭の主人、杉浦治郎右衞門の意見を入れ、祇園の芸舞妓のお茶と歌舞を公開することにしたと云う。

祇園新地舞踊師匠の片山春子(三代目井上八千代)に協力を仰ぎ、お座敷舞の形式ではなく集団での『舞』を考えた。
そして終始幕を閉めることなく、背景を変えることで場面を変転させて進めるという編成は、極めて近代的かつ独創的な演出であった。
こうして出来た『都をどり』が明治5年に催されたのである。

歌舞練場のお茶席は博覧会に外国人が多く来るのを予想と期待して、裏千家第十一代家元、玄々斎宗室宗匠が我が国で初めて、 立礼式(りゅうれい)の点前を創案し、これに基づいて芸舞妓は円椅子に掛けてお点前を披露し、現在も続いている。
外国人で無く日本人にも有難い茶席である。

当初はこの南側にあった織田有楽斎の名席如庵で行っていたお茶席も、その後、大正時代に歌舞練場構内に移したと云われている。

余談が長くなったが、そろそろ開演時刻となった。

をどりは、可愛い舞妓さん15~6人の踊りから始まって、舞台の変化に連れて進んで行く。
西本願寺飛雲閣、伏見稲荷田植祭、上賀茂・大田の杜若、源氏物語・須磨の浦、
東本願寺・渉成園紅葉狩、円通寺叡山遠望へと、変わって行く。
最後の知恩院の桜で京の四季を一巡して、45~46名の芸舞妓さんの豪華絢爛なるフィナーレとなった。

息つく暇も無い連続の一時間。見事としか言いようがない。
人間国宝で今は亡き四代目家元井上八千代さんの
「どうどすか?」
と誇らしげな顔が浮かんで来る。

そう云えば今年は、伏見稲荷鎮座千三百年、浄土宗開祖法然上人の八百回忌、本願寺浄土真宗開祖親鸞上人の七百五十回忌の節目の年にあたる。
演目はそれを織り込んでいたようである。

歌舞練場がお開きになったので、このミニ探索もお開きとする。
花見小路、一つの花は白川べりの桜、もう一つの花は都をどりであった。

「艶やかに 花の下なる 京の舞」

(注:この探歩は昨春のことであり、をどりの内容も昨年のものである)

〔完〕