『1、野崎参りは 屋形船でまいろ
どこを向いても 菜の花ざかり
粋な日傘にゃ 蝶々もとまる
呼んで見ようか 土手の人

2、野崎参りは 屋形船でまいろ
お染久松 切ない恋に
残る紅梅 久作屋敷
今も降らすか 春の雨

3、・・・・・・・・       』

この歌、野崎小唄は、ロイド眼鏡、燕尾服、直立不動で歌う歌手東海林太郎氏によって昭和10年ごろから歌われたロングランのヒット曲である。
と云ってもテレビのない時代であるし、まだ生まれてもいない時代のことであるのに、なぜかその歌う姿が、直ぐに思い浮かぶ。
それだけ特徴のある国民に愛された歌手である。

さて野崎参り、江戸時代の元禄の頃から、大坂の人々は生駒山の東裾の野崎にある野崎観音・慈眼寺にこのようにして屋形船や街道を歩いて、賑やかにお参りしたと云われる。

元禄のころになると戦乱の世も治まり、町の人々の生活に少しの余裕ができた。
浄瑠璃見物やミニ旅行など、ちょっとしたことが楽しめるようになって来た。
勿論、一世一代の大旅行、お伊勢参りも行われるが、そこまでは資金はなく、それはお金を貯めて輪番制で行われたのであった。

野崎参りの対象となる慈眼寺は大阪府の東端、生駒山の麓、大東市にある。
平安期の創建であるが、戦国の戦火にま見えること数回、大坂の陣の後の年に再建され、現在の姿になったと云われる。

大昔は野崎の西側まで大坂湾が入り込んでいて、大坂からは船便しかなかった。
時を経て、生駒山から土砂が流れ込み、大坂湾から切り離された後は深野池という大きな池として残された。
しかしここは寝屋川、恩地川、大和川が合流する地点であるため、大雨が降る度に氾濫が起きた。
元禄のころになって、大和川が今の大阪市と堺市の市境を流れるように付け替え工事が行われ、今のような形になったと云われる。

道路も整備され、野崎参りや伊勢参りの街道として賑わったのでのでもあった。
そして、大坂の天満橋の八軒家船着場から船で寝屋川を遡る方法と、陸路寝屋川の岸を歩く方法の2つのルートになったと云われる。
この2つのルートの存在が、野崎参りを退屈させないことにしたのだが、その話は後程…。
話がややこしくなって申し訳ないが、この陸路、寝屋川岸北岸を歩いて野崎観音に至る道を野崎街道と云う。

野崎街道の出発点は定かではないが、大阪市の城東区今福の辺りと云われる。
この辺りに常夜灯があったが、現在はこの界隈の皇大神宮の境内に移されている。

街道探索に当たり、まずその皇大神宮を訪れてみた。
常夜灯やその他を拝見した。
上手い具合に神主さんが境内の掃除をされていたので、話を聞いてみた。

「昔は、この辺りから東は生駒の方まで海だったんですよ…。ここは大坂城のある上町台地(昔は半島)から突出したところだったんです。古代の丸木船も発見されています。大阪城内に展示されていたんですが、空襲で焼けてしまいました。 ……』
と、過去のことを話してくれた。
勿論、ご朱印も戴いて、早速街道探索に出かけたのであった。

この皇大神宮の近所、今福交番の三叉路を三郷橋と云うのだそうであるが、この辺りで先ほどの丸木船が発見されたそうである。
また常夜灯もこの地点にあったと云われる。
ここを野崎街道の出発点とする。

ここから寝屋川北岸まで、住宅街を抜け5分ぐらいで出る。
極楽橋と云う橋が架かっている。
観音様に因んだ橋であろうか…?
その橋の前にある今福小学校の校門横に「旧野崎道の跡」と云う石碑があった。

この場所に港や茶店や旅籠があったそうである。
野崎観音へのお参りの前後に、人々は休んだものと思われる。

そこから寝屋川の北側をひたすら歩くことになる。
寝屋川は天井川なので、川岸はコンクリートの壁である。
川は見えない。その代り壁に子供たちの絵が描かれていたりする。
ところどころに橋が架かっているので、橋の上まで行って、川を眺めるしかできないのは残念である。

かつての野崎参りは川の土手を歩く人と、船で行く人とが道中言い争いをしながらお参りするのが通例であったと云われる。
その口喧嘩に勝った方が御利益が多くなるといわれている。
勝てそうな相手を見つけては、言い争いをするのだそうである。
さぞや賑やかなことであったと思われる・・。

浪花の落語家・桂春団治の十八番「野崎参り」で、そのやり取りが十二分に語られているので、ここでは省略させていただく。

とは言っても、一節だけ・・。

船の中から、
「虎は死んで皮残すんじゃ…?」
と吹っかけてきた。
「ほおら、船の中のン、よう物知っとんな。
おい!ほたら、ライオン死んだら何残すんじゃい?」
「大方、歯磨き残すじゃろ」との答え…。
船の勝ちであるが、こんなアホなものである…。
上方人一流の誰でも漫才のようなものであったと思われる。

先を急ごう…。
と云ってもひたすら、壁際を歩くだけである。
途中に下水処理場が2か所、化学工場がいくつか…。
その他は主に住宅、店舗も混じったりしている。
街道旅としては、全く面白いものではない。

大東市のJR住道駅まで着いた。
この駅前広場の下で寝屋川は八尾あたりから流れてくる恩地川と別れる。
今度は寝屋川の東岸の道路に沿って、北上することになる。
大東市役所の裏口を通過して、少々行くと両皇大神社の祠がある。

通り過ごして行くと、右側から川が流れ込んでくる。
谷田川である。
その地点に「野崎観音」の古い石柱があり、道しるべとなっている。
この川に沿って遡ることになる。

とは言っても同じような天井川。コンクリートに沿って歩くだけである。
暫く行くと、JR片町線(学研都市線)の踏切を渡る。
渡ってすぐ、川が2手に分かれる。
ここが水路の終点で港があったところである。
「観音浜」と云う。
新しい石碑が立っている。

ここからは、誰もが歩きである。
さっき言い争った人と会ったりしたときには、仲よく連れだって、この先の門前通りで、お酒やお茶でも一杯と云うことになったらしい。
なんとも、和やかではある。

門前の商店街を抜けて、旧の国道170号線を渡り、観音さんへの取り付き道路となる。

まずは石段である。
歩き疲れた上の石段はキツイ…。
石段を利用して近所の高校生の部活であろうか?
上下ランニングを繰り返している。

礼儀も正しい。
コーチしている上級生らしきが、お参りの人ごとに「こんにちは!」と声をかけている。
清々しい気分となり、段を上り、観音さんの境内へと向かったのであった。

野崎街道、昔は菜の花畑、今はコンクリートである。

ゴール地点の高校生たちの元気に癒された歩き旅であった。

〔完〕