西宮街道とは聞き慣れない名前であるが、少女歌劇発祥の地、宝塚から西宮まで、主に武庫川右岸(六甲山側)に、通っている街道である。
別名、馬街道とも云い、江戸時代は米や酒の荷駄捌き、輸送の要道だったと云う。

宝塚の小浜(こはま)宿という昔から栄えた環濠集落、と云うよりも城塞集落があるが、その小浜宿を起点として西宮の甲武橋の西詰あたりで西国街道(現在の国道171号線)に合流し、終点とする。

小浜と云うところは、街道の集まる場所で、ここから東へ向かうのが京伏見街道、また大阪から伊丹を通って来て、小浜でこれら街道と交わり、更に北へ西へ向かうのが有馬街道で、南へ向かうのが西宮街道、小浜は交通の要衝であった。

この小浜宿は、中国自動車道の渋滞のメッカ、宝塚ICの付近にある。
付近を走る阪急電車からは、逆瀬川駅で降り、宝塚市役所の横を通り、武庫川の橋を渡って、少し歩いた突き当たりのちょっとした高台が小浜である。

かつて小浜のあたりまでは武庫の海と云って、海がこの辺りまで来ていた。
小浜の北の小高い所に「売布神社」が建立されたのは平安中期、また同じころ、小浜の集落内には行基の高弟、法仙和尚が諸国を行脚の途中、ここの地に草庵を結び、法仙寺を建立したと云う。

しかし、小浜が栄えるのは、戦国期の頃、毫摂寺(ごうしょうじ)という本願寺派の寺院を中心とした寺内城塞集落としてである。
毫摂寺は鎌倉時代に丹波福知山にあった天台寺院を本願寺3世の覚如(かくにょ)にに寄進され、覚如の別号であつた「毫摂」を寺名とし、京都に移したが、応仁の乱で京都の町が焼けた時、鴨川畔にあった毫摂寺も焼失、ゆかりあるこの地、小浜に再建したという。

この小浜宿や毫摂寺には、いくつかの逸話がある。また悲話も残されている。

大坂時代の豊臣秀吉、子宝の湯と云われる有馬温泉に、都合9回も行っている。
正妻おね同伴である。有馬温泉には、太閤やおねの像やらもある。
また、太閤の湯など、ゆかりの施設は現在も隆勢である。

秀吉の温泉行は、毫摂寺を休憩場所にして、茶の湯を楽しんだと云う。
もちろんお茶を立てるのは千利休、近くに玉の井戸と云う名水があった。
名水は、かの山中鹿之助の子孫の屋敷の中、子孫はこの名水を使って酒造りを始めたと云う。

山中屋敷の一部は現在、資料館として小浜宿の歴史展示場になっている。

館の職員さんに聞いてみたが、山中邸には今は住人がいないため、玉の井戸は拝見できないとのことであった。

また、秀吉の甥・養子の秀次が、北政所おねを伴なって有馬に行く時、この毫摂寺の美貌の娘を見染め、無理やり京都の館へ連れ帰ったという。
この寺娘は亀姫、後には小浜の局という。
しかし、淀君に秀頼が産まれると、謀反の口実をつけられ秀次は切腹させられ、30人もあったと云う秀次の妻妾達を三条河原で殺害という惨劇が起こった。
小浜の局は、その時16歳であったという。哀れである。

毫摂寺は本願寺の寺、信長の本願寺戦争の時はどうだったろうか?
一説によると、この本願寺、信長に帰順していて、信長もこの寺に滞在し、破壊は免れたと云う。
この辺りは、信長の重臣・荒木村重の支配地、それは頷ける話であるが、村重謀反の疑いが出た時はどうだったろうか?微妙ではある。

この小浜宿、江戸時代になって、通商・物流の要衝と定められ、集落の中に代官所もでき、商家・馬借・茶屋・芝居小屋など出来、発展したと云われる。
代官所の門前に、運賃等を定め掲示している札場の再現もあった。

まだまだ沢山のことがありそうな小浜宿、ついつい話が長くなってしまったが、いよいよ西宮街道へ出発することにする。

尚、この小浜の町、この前の阪神淡路大震災で、かなり被害を受け、古いままのものばかりではなかったのは、致し方がない。

街道の出発点は、毫摂寺の横にある皇大神社前。三叉路になっている。
北へ行くのが有馬街道、東へ行けば京伏見街道、南が西宮街道・馬街道である。
南に歩く。程なく祠と鳥居がある。愛宕社で旅の無事を祈願するところである。
この愛宕社、北の口、東の口にもある。

愛宕社前を下って行くと、途中に首地蔵が2体、鎮座している。
高さは子供の背丈ほどもありそうな・・。
近くの墓地の藪の中にあったものを見つけ、お祀りしたと云うことである。
近年火事があり、お地蔵さんが傷ついたので、もう一体お祀りし、2体になったと云うことであった。

この地蔵さんの下の街道筋に、谷風岩五郎の墓があった。この小浜の米豪商の生まれで、大関まで昇進した力士である。

その後は、環濠集落小浜を取り巻く川、大堀川を渡り、国道176号線を横断し、武庫川を目指して進む。

武庫川は渡し船だったそうであるが、今は無いため、止むを得ず、大きな橋を渡る。
渡った所が宝塚市役所である。レトロ調の建築物であり、落ち着いた佇まいである。

その先は、伊孑志(いそし)という町名。難読である。
先ほどの武庫川の渡しは、伊孑志の渡しと云ったそうである。

伊孑志を過ぎ、小林(おばやし)と云うところに入る。
大きな車道があって、旧街道が分からなくなってしまった。
そこに、宝塚神社という看板があったので、そこへ行って聞いてみようと、矢印を辿った。

途中、旧街道らしきものが2本あったが、正確を期すため、神社に向かった。
阪急電車の線路の向こうに、大きな寺院と神社があった。
寺院の方に先ず行って見る。平林寺と云う真言宗単立の寺院である。
いくつかの塔頭がある大きな寺院であるが、それぞれの塔頭は派が違うのも面白い。
聞くところによると、聖徳太子の創建であると云う。

隣の宝塚神社に行った。
境内からの見晴らしは良く、初日の出ポイントと云われるそうである。
お参りし、御朱印を戴き、対応してくれた宮司の奥さんと思われる人に聞いてみた。
「西宮街道? あまり良くは知りません」
とのこと。

それでも宝塚の市史などの本を引っ張り出して調べてくれた。
古地図もあった。
見せてもらい、
「多分、この道でしょう」
と解説してもらった。

さっきの2本の道が、少し行ったところで、一本になる。
辿って歩いたが、それらしき道標など、何も見付けられなかった。
程なく、小林駅の所に出た。通勤駅であろう。大きな自転車置場が目立った。

更に歩く。次は仁川駅である。道標一つ見当たらない。プロが馬を引いて通った馬街道なので、迷うことはないのであろう。

何やら左手に大きな建物が見え隠れしている。何だろうと思いながら進んだが、程なく思い出した。仁川の競馬場である。

道は、競馬場を目指していたのだった。仁川駅の所で自動車道に出た。
眼下間近にJRA阪神競馬場が見える。

あとは、競馬場の南の川(名前も仁川)沿いに、武庫川の甲武橋に出るばかりとなった。

競馬場のレースは休みであるが、幸いに公園は開放されていたので、入って見ることにする。

競馬場の公園は、花壇や子供の広場で構成されている。また綺麗なコースも眺めることができる。
公園はメインスタンド側である。反対側のバックストレートは桜の並木…、しかし、そこへは見には行けない。

競馬場に来たので、ついでに、競馬の歴史の一端を辿ってみる。

我が国では、古来から神社の行事で、競馬(くらべうま)神事が行われていた。
賀茂の競べ馬が有名である。
神社境内の馬場を直線的に走り抜ける行事である。
また、馬上から弓矢にて的を射る、流鏑馬神事も行われていた。

日本で円形の競馬が行われたのは、江戸末期の開国以降、外国人の居留地において、外国人の遊びとして始まったものである。
横浜に根岸競馬場が作られ神戸にも作られた。
競馬場は治外法権であったため、幕府や明治政府の賭博禁止令に触れることなく、馬券も発売されたと云う。

これを真似して、日本人による競馬が、各地で行われるようになった。
当時は政財界、軍や皇室と云う上流階級のための催しとして行われ、紳士淑女の集う場所とされていた。しかしこうした日本人による競馬は馬券の発売ができなかったため、明治30年代には経営上の理由で、全て廃れてしまったのであった。

この時期の競馬では、競走馬として日本馬が用いられた。速く走ると云うよりも、農耕や運送に適していた馬であったので、今のようなサラブレッドによるスマートな競馬ではなかった。

しかし競馬再開に強力な意向があった。
日清戦争・日露戦争において日本の軍馬が西欧諸国のそれに大きく劣ることを痛感した軍部・政府は、内閣に馬政局を設置して優秀な馬の生産に着手する必要に迫られた。

そのために、馬の選別として、競馬を行い、馬券を発売して産馬界に市場の資金を流入させるということを目論んだ。

賭博行為は違法であったが、競馬は軍馬育成の国策に適うとして、桂太郎内閣は馬券の発売を黙許した。
時は明治38年のこと、東京競馬会が設立され、競馬が開始されたのであった。
これが日本における賭博競馬の始まりとされている。

東京競馬会の成功を受けて、日本各地で競馬会が設立されたが、配当の仕方が不慣れである上に、八百長の疑いも頻発したため、2年後に賭博競馬は廃止となってしまった。

それでも軍部・政府は軍馬の生産・品種改良等のために競馬開催を必要としていたため、補助金を出し、勝ち馬投票して、的中の場合には景品を出すと云うことで、競馬継続をさせた。

この競馬は暫らく続けて行ったが、補助金が増大してきたため、大正末期には、止むを得ず馬券の発売が認められ、再び賭博競馬に移行したのであった。

戦後、占領軍GHQから、日本競馬会が仕切る中央競馬は独占禁止法に違反するとの指摘があり、はたまた解散。
その後は農林省の管轄の下に日本中央競馬会(JRA)が設立され、現在に至っているのである。

競馬は当初は、軍用馬の生産・評価と云う大きな目的があったようであるが、現在はその要は全くなしと思われる。
それではその開催目的は何であろうか?
単なる娯楽であるのなら、それはそれでいいとは思うが・・。

この阪神競馬場、当初は西宮の鳴尾浜あり、海軍飛行場建設のため、場所替えが必要となり、この西宮街道の出発点に近い逆瀬川の宝塚ゴルフ場を買収して厩舎等の施設を作った。
競争馬場を作る段になって、ゴルフ場を潰すことに反対したGHQがゴルフ場を接収したため、馬場は仁川に作られた。

そのため、競馬開催の都度、馬が移動したそうである。正に馬街道であった。
場所が2分されている阪神競馬、このころは人気が無かったそうである。
その後は全て仁川に集結し、今の陣容となった。

ここ競馬場も、阪神淡路大震災で、壊滅的被害を受けたが、現在は今までの不遇の分も含め、思い切り綺麗な姿をしている。

この西宮街道、かつては輸送馬の行き交う馬街道と云われたが、現在でも馬が関係する街道であったのである。
〔完〕