鶴見通りは大阪市の東部を東西に走る通りである。
「そ」の街道で歩いた曽根崎通り(国道1号線)を更に東へ行くと、大阪の京橋を越え、その先の蒲生4丁目で1号線は北へ直角に曲がる。

そのまま東へ行く通りが、鶴見通りである。
そして東へ進み、中央環状線と交差するまでの部分のことを云う。
鶴見通りはそこで終わりだが、その街道はまだまだ東へ続く。
大東市内を通り抜け、生駒山に登って行く。
その街道は阪奈道路と呼ばれ、奈良の中心、奈良公園へと至る道である。

鶴見通りの地下には、西半分くらいの部分に地下鉄が通っている。
西から、「蒲生4丁目」、「今福鶴見」、「横堤」の3駅がある。

この鶴見通り、西から順に歩いて見ることにする。

蒲生4丁目交差点がスタートである。
この辺りは大手銀行の支店がいくつか出ていて、賑やかなところである。
東に進むと両側は商店あり、マンションありの雑多な風景となる。

なにも注目すべきものが無いようであるが、この辺りは大坂冬の陣で激しい戦いが行われたところである。
今福の戦いあるいは今福・鴫野の戦いの舞台と云われる。

当時は大和川と云われていた現在の寝屋川の右岸がそうであった。
川堤に築いていた大坂城側の防御柵を破壊しながら、徳川側の佐竹義宣隊が攻めてきた。
家康の命令により、徳川の付け城をこの川の右岸今福に築く目的であった。

これに気付いた豊臣側の木村重成隊が大坂城から単独で飛び出し、戦闘を交えたのであった。

互角ではあったが、対岸左岸にいた徳川側の上杉景勝隊が鉄砲を撃って来たのだから堪らない。
木村隊はたちまち劣勢となってしまった。

その様子を、豊臣秀頼、後藤又兵衛が大坂城の天守より眺めていたそうである。
秀頼は又兵衛に出陣を命じ、又兵衛も直ぐに救援に向かったと云う。

又兵衛が駆けつけ、木村隊と共同して佐竹勢を押し戻した。
しかし、徳川側は上杉景勝隊、堀尾忠晴隊、榊原康勝隊が川の中州まで出て、さらに撃ってきた為、木村隊、又兵衛隊とも撤退したのであった。

徳川側もそれ以上は攻められず撤退することになり、徳川の付け城の築造はかなわなかったのであった。
大坂冬の陣の初期の頃の戦いである。

一方、大坂城の南側では、出城真田丸が築かれ、真田幸村隊が勇敢な戦いをしたことは良く知られている。

城周辺では、あれやこれやの戦いがあったものの、一進一退の膠着状態。
勝負は徳川軍がオランダから導入した大砲・カノン砲が配備され、大坂城に撃ち込まれたことにより、急速に和議へ進んだ。
そして城の堀が埋め立てられて、無防備の大坂城にされ、夏の陣へと続いて行くのであった。

その大坂の陣の時に、鶴見通りの西の入口あたりでは、400年前にこのような戦いが行われたのであった。
感慨深いものがある。

通りを更に東に進む。

「今福鶴見」の地下鉄駅を通り過ぎ「横堤」に向かう。
この辺りには最近になって再開発が進み、大型ショッピングセンターができている。
横堤に近づくに従って、マンション街が目立って来る。
地下鉄の敷設に伴って数多のマンションが建設され、活気ある賑やかな町になっているようである。

更に東に進む…。
左手に緑地が見えてくる。
「鶴見緑地公園」である。

この緑地は今から22年前に「国際花と緑の博覧会」いわゆる花博が開催されたところである。
花博の跡地は「花博記念公園鶴見緑地」として大阪市の外郭団体が管理している。
市民は花を楽しんだり、レクレーション・スポーツを楽しんだりできるようになっている。

「花博」を少し振り返って見ることにする。

花博は1989年の大阪市の市制10周年事業として、国内博覧会として開催することで準備が進められていた。
そして既に整備が進んでいた鶴見緑地でその5年程度前から、博覧会準備のイベントが定期的に開催されていたのであった。

その後、国の政策とも合致したことによって、国際博覧会の計画に変更され、1990年に国際博として開催されることになった。
但し、その頃は「鉄冷え」と言われて、日本経済は冷え込んでいたため、国の決定は民間活力導入を条件にと云うことになったようである。

しかし、1980年代の後半あたりから、バブル景気と云われる大型の景気動向となったため、民間企業からの参加や資金提供は順調に推移することになった。

この博覧会への民間企業からの寄付金の総額は、国際博覧会史上最高を記録したとも云われている。
このバブル期の頃、国内で大小様々なイベントが催されたが、その中でも花博は最大規模であったと云われている。

花博の会場の広さは約140ha、テーマは「自然と人間の共生」、マスコットはチューリップをデザインした「花ずきんちゃん」であった。

花博の会期は4月1日~9月30日、入場者数は当初計画の2000万人を超え、2313万人にものぼったと云う。
尚、パビリオンでの最長待ち時間は6時間であったと記録されている。

この博覧会は名の通り花庭園など屋外型の展示場が沢山設けられていた。
そして、各国からの珍しい庭園も多数展示されたのである。

企業のパビリオンとしては、大型映像、立体映像の展示が呼び物となった。
また、ハイビジョンやデジタルテレビに係わる伝送実験等も行われ、現在の新しい放送文化を迎える基礎になる働きもしたのであった。

花博が終わって、その跡地は花博記念公園鶴見緑地として整備され、市民の憩いの場となっていることは前述の通りである。

博覧会終了と同時に、ほとんどすべてのパビリオン・乗り物等は撤去されたが、残された建物もある。

咲くやこの花館、 いのちの塔、国際陳列館、国際展示・水の館、等である。
このうち、国際陳列館や水の館は、現在は生涯学習センターやスポーツセンターとして、あるいはイベント展示場として活用されている。

咲くやこの花館は、世界中の植物を一ヶ所で見ることができる日本最大級の温室・展示館として今も運用されている。
2600種、15000株の花を楽しむことができるようになっている。

90mの高さのいのちの塔はその展望塔としての役割が2年前に無くなったが、シンボル塔として残されている。
近くを通られた方は、是非、眺めて頂きたい。

そして、会場内を走っていた鉄道の「山の駅」駅舎はJR福知山線柏原駅に、「風車の駅」駅舎は大飯原発で話題を呼んでいるJR小浜線若狭本郷駅にそれぞれ移築されている。

花博跡地を一巡して、また鶴見通りに戻った。
あとは終点の中央環状線のところまで、もうあまり距離はない。

郊外型のファーストフードの店など前を通り、安田東の交差点まで歩いた。
鶴見通りの街道旅の終わりとなった。

「花博の いのちの塔に 見守られ  市民集いて 花を楽しむ」

〔完〕