京都に所用があり出掛けた。
少し早めに出て「し」の街道の踏破を目論んだのであった。

鹿ケ谷通りは京都地下鉄東西線、蹴上(けあげ)駅を降りて、南禅寺域に入る琵琶湖疏水に関わるインクラインの下の煉瓦のトンネルを潜ったところから始まる。
このトンネルは強度を増すために煉瓦が螺旋状に積み上げられている。
そのため「ねじりまんぼ」という京都にしては洒落た名前が付けられている。
トンネルを潜ると暫くは南禅寺の中の細い道を歩いて行く。

少し歩くと、左手に南禅寺の塔頭「金地院」が現れる。
金地院の境内はかなり広い。
先ずは東照宮の神門、次に寺院の門がある。
この金地院は、元々は足利義持によって洛北鷹ヶ峰に創建されたのであるが、家康の時代になって、家康の信頼が厚い金地院崇伝の手によってこの地に移されたものである。
東照宮は崇伝が徳川家康の遺言により、家康の遺髪と念持仏とを祀って造営したものである。
そして庭園は崇伝が将軍家光のために、大名であり建築・庭師である小堀遠州に造らせたもので、江戸初期の枯山水の庭園としては著名なものである。

鹿ケ谷通りにある金地院の正門を潜り、南禅寺の三門前へと向かう。
三門は確かに大きな門である。江戸時代になってから藤堂高虎に造らせたものである。
石川五右衛門の歌舞伎にこの門が出てくるが、それは芝居のストーリー上のもので、五右衛門の時代には残念ながらなかったのである。

南禅寺三門前を通過して、鹿ケ谷通りを歩く。
途中に、3つ4つと塔頭があるが、その前を通過して行く。
その中には達磨大師を祀っている達磨堂もる。

道が曲がって、南禅寺の寺外へ出る山門「大寂門」を潜る。
その門を潜って外へ出ても、まだ塔頭はある。
少し行くと左手に野村證券の創業者の別荘であった地に作られた野村美術館、右手には京都ではよく知られている「東山中学・高校」がある。
東山中・高の校舎には、「東山中学ロボット研究会、全国優勝、世界大会出場」、高校各運動部の全国大会出場の横断幕が掲げられていた。

先に進む。
右手には秋の紅葉と「見返り阿弥陀」で有名な永観堂禅林寺がある。
まずは永観堂幼稚園の出口にあたる寺門があり、続いて永観堂の入口の山門がある。
門から入って紅葉の様子はどうだろう?と眺めてみたが、一部の木が橙色に色付いている様子で、全体にまだ蒼紅葉であった。

永観堂を出て、塀に沿って北上する。
右手に「哲学の道」の入口、若王子神社へとつながる道がある。
寄り道をせずに歩いて行こう…。
ここからは少しの上り坂となっている。

「HDうどん」といううどん屋さんを発見した。
丁度昼時、ここは寄り道をして行こう。
少々お高いうどん屋さんで、料理が出てくるまでかなりの時間が掛かったが、値段と待ち時間相応の美味しいうどんであった。

うどん屋さんを出て、北へと進む。
右手に後水尾天皇勅願所「光雲寺」に繋がる道があるが、これもパスする。
程なく左から来る丸太町通りとのT字路に至る。
ここから北が住友財閥の別荘地であったところである。
左手に住友コレクション「泉屋(せんおく)博古館」、右手に庭園「有芳園」がある。
ただし、本日は両方共が休館日で、入れないのは残念であった。

ここから暫くはお店はほとんどなく、民家の連続である。
左手に第三錦林小学校がある。
右手にノートルダム女学院へ至る道がある。
ここを行けば、女学院、谷の御所霊鑑寺、安楽寺と並んでいる。
少し余裕がありそうなので、安楽寺に寄り道をしてみる。

安楽寺は浄土宗法然上人ゆかりの寺で、茅葺の寺門の寺である。
鹿ケ谷カボチャという京都の地野菜があるが、そのカボチャ供養でも有名である。
この寺には、こんなエピソードがある。

後鳥羽上皇の松虫、鈴虫と云う名の見目麗しい二人の女御が、当時は草庵であったこの寺に惚れ込んでいた。
上皇の留守の間に鳥羽院まで住職を呼び、説法してもらった。
感動を受けた二人、その後、寺に駆け込んで剃髪し尼さんになってしまった。

それが上皇の怒りに触れたのである。
住職安楽と住蓮は死罪、法然は四国讃岐へ流罪、親鸞も越後へ流罪となった。
このことを「建永の法難」という。

その後、法然と親鸞は京へ戻った。
流罪地から帰京し法然上人は安楽上人と住蓮上人の菩提を弔うために一寺を建立した。
「住蓮山安楽寺」と名付け、両上人の追善の寺としたとのであった。
この寺には2人の女御、松虫、鈴虫の墓もある。
この寺の別名は「松虫鈴虫寺」とも云われる。

寄り道はこれくらいにして、元の鹿ケ谷通りに戻る。
道はこのあたりから大きくS字を描き、それを過ぎると下りとなる。
前方に比叡山が見え隠れする。
銀閣寺が近づいて来たようである。

趣のあるカフェや食事処がそこここに見られるようになる。
右手に有名な「OMN」といううどん屋さんの本店がある。
平日であるのに、さすがにここは行列を成している。
この辺りは浄土寺と云う地名で、かつては大寺院があったが、今はそれを偲ぶものも見当たらないのは残念である。

程なく今出川通りに出る。この道を右に行けば銀閣寺に至る。
観光客やバス・タクシーが列をなしているおなじみの光景である。
この地点が鹿ケ谷通りの北の終点である。

この終点左手に「白沙村荘(はくさそんそう)」があるので、最後にそれを訪れてみることにする。

白沙村荘は大正5年(1916)年に、京都画壇の文人画家・日本画家の橋本関雪(かんせつ)が建てた邸宅である。
広大な1万平方メートルの敷地に、居宅、庭園、茶室などを備えたものである。

この地は、元は浄土寺の寺域であったとされ、当時は田園地域であったと云う。
造営当時の橋本関雪は東京から、南禅寺金地院に仮住まいをしながら造営の指揮を取っていた。
そして、建造物や庭園の設計は関雪自身が行い、関雪の絵画の世界を現実の風景として実現したのであった。

幸いに休館ではなかった。
庭には大きな池を配し、その周りに居室や茶室などがしつらえられている。
池のある庭園から潜り門を抜けると、そこは枯山水の庭園、平安時代から鎌倉時代の石塔が数多くコレクションされている。
また、北の小高い部分には、石仏群が配置されていて、中にはユーモラスな仏さんもいる。

最後に展示室にて、書画とお孫さんのガラス簪のコレクションを拝見した。
因みにこの白沙村荘、国の名勝に指定されている。

これにて探歩は終了した。
鹿ケ谷通り、短い通りではあったが、稔り多い探歩であった。
しかしながら、この通りやはり紅葉の時期であろう。
まだ一ヵ月以上も早かったと思われる。
少し残念である。

〔完〕