「か」の順番となった。
京阪奈の郊外の三重県伊賀市上野城下の物語をする。

奈良の旧都、大仏殿のあたりから山間を東へ抜けるとそこは柳生の里。
藩祖・柳生宗矩、言い換えると柳生十兵衛の柳生藩、柳生新陰流の里、剣豪の里である。

柳生から更に東に向かうと、月ヶ瀬を経て山間部を抜け伊賀の国に至る。
伊賀の国は、服部一族の武勇の里、忍者の里としても親しまれている。

この両者、その武勇・技量を余すところなく発揮し、戦国を駆け抜け、長きに渡る徳川の世を支えてきたことは間違いがないが、この物語の趣旨とはあまり関係がない。

この上野の城下に「鍵屋の辻」という伊勢街道と奈良街道との交差点がある。
この鍵屋の辻を通る度に気にはなっていた。

日本三大仇討(あだうち)と云われる出来事があった。

三大仇討ちの1つ目は鎌倉幕府の初期、1193年のことである。
将軍源頼朝までを巻き込んだ曽我兄弟の仇討と云われる。

ひとつ飛ばして3つ目はよくご存じの元禄の時の忠臣蔵である。

2つ目はこの上野城下の鍵屋の辻で行われた荒木又右衛門、渡辺数馬の仇討である。
伊賀越えの仇討と云われる。鍵屋の辻の決闘とも云われる。
ただし信長の本能寺事件の時にも、家康が伊賀越えで岡崎に帰ったと云われるが、その時に辿った道は、もう一本北の道である。

荒木又右衛門はご存じの方も多かろうとは思うが、伊賀の国上野城下の東、服部郷荒木で出生したと云われる。
生年は豊臣秀吉の亡くなった翌年のことであった。

父親や兄は備前岡山藩に召抱えられていたので、又右衛門も自然と岡山藩に仕えたことになっていた。
当時の岡山藩主は池田恒興の孫、池田忠雄(ただかつ)であった。

池田家は信長の譜代の家臣である。
その後、秀吉に仕え、秀吉が家康、信雄相手に仕掛けた小牧・長久手の戦いの時、先鋒になって徳川・織田連合軍に立ち向かったが、安藤直次に敗れた。
忠雄はその時、父・兄が撃たれる中、生き残り、その後家康に抱えられた岡山藩祖・輝政の子供である。

事件は、その岡山藩にて起きたのであった。

大坂の陣は終わったが、徳川藩幕体制もまだ定まらぬ1630年頃のことである。
藩主池田忠雄は小姓の渡辺源太夫を寵童にして、寵愛していたと云う。
この源太夫は、藩内一の美少年であったとも云われている。

この源太夫に藩士、河合又五郎が横恋慕し、迫ったのであった。
それを源太夫が拒否したため、又五郎は怒り狂い、源太夫を殺めてしまったのであった。

又五郎は脱藩して江戸へ逐電し、直参旗本、長久手の時の池田家の敵、安藤直次の屋敷に匿われたことが、事件をさらに複雑化したのであった。
時は、旗本と大名の確執が政治問題化していた。
そんな中、徳川家康の娘督姫の子供である池田忠雄と旗本が対決するとなると、それは大変なことになる筈であった。

この時、忠雄は、河合又五郎を呼び戻して処罰しようとしたが、かくまった安藤家がこれに抵抗した。
止むを得ず忠雄は公儀に訴えたのであったが、安藤には旗本達が後ろ盾となり、事件は外様大名と直参旗本の抗争に発展する勢いとなった。

これを収めようと、老中松平伊豆守が動き出したのであったが、翌年、忠雄公が急死したのであった。
事なきにしようとした老中・伊豆守の差し金で、毒殺されたとも云われる。
忠雄は亡くなる時に、
「又五郎の首を、必ずや我が墓前に供えよ」
と、遺言したと云う。

この事件に終止符を打つべく、幕府は先ず、岡山藩の池田家を因幡鳥取へと国替えをしたと云う。
安藤側の首謀者は百か日の寺入り謹慎処分、河合又五郎を江戸追放処分とし、喧嘩両成敗の形式を取ったのであった。

幕府はそれで収めた積りではあったが、当事者の系累はそれでは収まらないのは、世の常である。

殺された源太夫には渡辺数馬という兄がいた。この数馬、主君忠雄の遺志を継ぎ、江戸追放となった又五郎を討とうとした。
因幡行きを拒否して、弟の仇討のために脱藩したと云う。
そして助太刀に、当時は大和郡山藩の剣術指南役になっていた姉婿の荒木又右衛門に懇願したのであった。

又右衛門はその仇討への助太刀を決意した。
そして郡山藩も退去したのであった。
又右衛門は一介の田舎武士が、世に出るチャンスと考えたのが本音であったと思われる。

又右衛門は河合又五郎の行方を捜した。
ある時、同じ郡山の又五郎の伯父、河合尽左衛門の家に潜伏しているのを突き止めたのであった。

又五郎は危険を察し、再び江戸へ逃れようとした。
そして、数馬らは、その逃亡ルートは伊賀路を通り江戸へ向かうことを知り、道中の上野城下、鍵屋の辻で待ち伏せすることにしたのであった。

又五郎一行は、又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門、妹婿で槍の名人の桜井半兵衛などが護衛に付き、合せて10人強の人数であった。

一方、待ち伏せ側は数馬と又右衛門、それに門弟の岩本孫右衛門、河合武右衛門の4人。
まともでは勝負にならないので、綿密な作戦を立てた。

河合又五郎一行は1634年11月7日早朝、待ち伏せを知らず、鍵屋の辻に通り掛った。
そこへ数馬、又右衛門らが切り込み、決闘が始まったのであった。

孫右衛門と武右衛門は二人して、馬上の桜井半兵衛と槍持ちに斬りつけ、半兵衛に槍が渡らないようにした。

又右衛門は馬上の河合甚左衛門の足を斬り、落馬したところを切り伏せた。
次いで又右衛門は孫右衛門と武右衛門が相手をしていた桜井半兵衛を打ち倒す。

このとき武右衛門が斬られて命を落とした。
又五郎が頼みとしていた甚左衛門、半兵衛の二人が討ち取られたことで、又五郎側の多くは戦意を喪失し、逃げ出してしまった。

逃げ遅れた又五郎は数馬、又右衛門らに取り囲まれた。又五郎を倒すのは数馬の役目であるが、この二人は剣術は素人で、その後、延々5時間も斬り合った。

やっと数馬が又五郎に一太刀浴びせたところで、又右衛門は、
「助太刀、申す」
と言い、とどめを刺したのであった。

「いよいよ待ちに待ったる時節到来、
河合又五郎の一門が鍵屋の辻に差し掛かったとみるや、
タ・・・・・・・・タと、飛鳥の如く飛び出した又衛門、
いきなり先頭の河合甚左衛門
を一刀のもとに切り捨てた。
…、おなじみの荒木又衛門、三十六番斬り…」

二代目一竜斎貞山の講談の一席である。
附人を36人にして、場面を盛り上げ、それが定説になったと云われる。

秘話であるが、決闘が行われた地の領主である藤堂家が又五郎一行の情報を提供したり、兵を密かに配置し決闘が始まると周囲を封鎖し、又五郎の逃走を阻止するなど、数馬、又右衛門らを脇から支援していたとも云われている。

直参旗本に対する、外様大名の意地なのか…?

小牧・長久手で、旗本安藤に殺された大名池田の遺恨が、果たされたことにもなった。

見事本懐を遂げた数馬と又右衛門は、世間の耳目を集めた。
特に又右衛門は賞賛を浴びたとも…。

その後、数馬と又右衛門、孫右衛門は伊賀上野の藤堂家に四年間も預けられ、この間に、又右衛門を鳥取藩が引き取るか、旧主の郡山藩が引き取るかで協議が行われた。
最終的に、三人は池田家鳥取藩が引き取ることになったのであった。

鳥取に到着し、その日から程なくして、鳥取藩は又右衛門の死去を公表したのであった。
死んだことにされて、又右衛門は自由の身となって、その後の人生を送ったと思われるが…。

上野の鍵屋の辻、今は公園とちょっとした博物館が建っている。
もの暗いところで、嫌でもその当時の雰囲気を醸し出している。

「仇打ちの 舞台は重し 鍵屋辻  人の憎しみ 花ひらけしも」

〔完〕