今回のウオッチングする茨田や茨田大宮は?、ブロッサムとは?、大阪以外の人には何のことやら分からないのではと思われる。
大阪の人でも、茨田という地名は知っていても、その場所はご存じない方も多いのではないかと思われる。

大阪以外の人でも高校ラグビーのファンの方なら、花園の全国大会に3度も出場した「茨田高校」はご存じで、その文字は読めるのではと思われる。

大阪にも難読の地名は数多くある。
しかし同名の電車の駅があったり、有名な交差点があったりして、場所は大体知られていることが多い。

兎にも角にも茨田大宮という所に行ってみよう。

最寄駅は大阪地下鉄の鶴見緑地線「門真南駅」である。
この線はかつての大阪花博のアクセスとして造られた路線が隣の門真市まで伸延した路線である。
門真南駅には「なみはやドーム」と云う体育施設が雄姿を誇っている。
この体育施設は花博の五年後に造られた施設で、メインのフロアーが普通の競技フロアー、プール、スケート場と3変化することで知られている。
全国規模の大会も開催されたりしている。

ここは門真市なので、今回はこのなみはやドームの横を通り過ぎて、茨田大宮の地区へ向かう。
最初は東側の地区、茨田大宮4丁目である。

じつはこの茨田大宮という地域は大阪中央環状線・近畿自動車道で東西に2分されている。
東の部分が2、3、4丁目で、新しい住宅地である。
西の部分が1丁目で、農地も備えた古くからの集落である。

東の部分は高層アパートが林立する。
市営の団地が北から南へ連続している。
そしてその周りには、一般の住宅地が並んでいる。
4丁目はそんな街である。

南の3丁目は一般住宅も多くなってくる。
小学校、保育所もこの地域である。
3丁目から更に南へ下がり水路を超えると、大東市と云う別の街に入る。

水路の北の道を西へ行くと中央環状線に突き当たる。
その少し手前にはDC㈱の工場がある。
その前の道を北上する。
ここは2丁目で中央環状線沿いの街である。

住宅とビジネスオフィスの並ぶ中を北上する。
取り立てて云うほどの景観ではない。
北へ行くほどにブロッサムのタワーが見えてくる。
ブロッサムの裏側には茨田大宮西公園がある。
この公園を横切りブロッサムへと向かう。
ブロッサムの建物は6~7階建ての円形の大きいものである。
八重の重厚な白い花びらを軸付で伏せたような形である。

ブロッサムとは何か?
全国で2番目の売り上げをする「大阪鶴見花き地方卸売市場」である。
花博の5年後にこの場所に開場され18年を経過している。
「鶴見はなぽ~とブロッサム」の愛称で呼ばれている。

もう一つ、このブロッサムの階上にはアウトレットのショップがある。
なぜアウトレットを作ったのか良くは分からないが、創立当時は前の中央環状線がかなり混雑するほどの人気があった。
このアウトレットは全国展開しているMTIアウトレットパークの1号店である。
当初はMTIの名前を出していなかったが、5年前からMTIと名前を出している。
訪問した時は平日であったので客はそんなには多くは無かったが、買い物をしている場合ではないので、通り過ぎるだけである。

因みにこの建物は月下美人をモチーフにした建物である。
遠目にも良くわかるシンボルタワーを備えており、花博跡地の「いのちの塔」とセットでこの辺りの景観を醸し出している。

ブロッサムを後に、道路向こうの1丁目に行ってみよう。
交差点には「日本一たい焼き」の店がある。
本日の販売匹数と残数の表示がある。
今は興味がないので、これもパスして交差点を西に渡る。

1丁目を一巡ウオッチングしてみる積りで、南へ中央環状線沿いを歩いて行く。
10分程歩くと隣の安田4丁目という街との境界線に到着した。
この道を西に入って行く。

水路に宮前橋が架かっている。
神社がどこかに? と探してみると近くにあった。
住吉神社という名前である。
海辺でもないのに? と思うが、良く考えるとこの辺りはかつては大坂湾が入りこんでいた低湿地であったので、その名残であろうと思われる。

この辺りには入母屋造りの大きな邸宅がある。
かつてはこの辺りは農村であったことを物語っている。
極めて大きな家は庄屋だったのではないかと思われる。

これより南は茨田大宮の地域より外れるが、少し南へと行ってみる。
そこには茨田高校がある。
冒頭で紹介したラグビーの強い高校である。
この高校のOBには、元早稲田大、サントリーの監督である名将・清宮克幸氏がいる。

現在の大阪ラグビーは、大阪桐蔭、大工大高、啓光学園、東海大仰星と強豪が林立しているので、今は厳しいと思うが、是非とも頑張って欲しいと思う。

茨田高校を見て、元の茨田大宮に戻る。
真宗大谷派の浄念寺と云う寺の前を過ぎる。
大阪市立茨田北中学校の横を通過する。
その北には真宗大谷派の専立寺がある。
境内には見事な楠の木が茂っている。

も少し北へ行ったところに「大宮神社」と云うのがある。
境内には大阪市が保存樹に指定した巨大な楠の木がある。

この神社の由緒書きによるとこの神社は、祭神は天照皇大神(あまてらすおおみかみ)とのことで、創建は300年前の江戸中期とのことである。
更に由緒書には、
『昔当地は河内国茨田郡下であった。茨田は日本書紀によると仁徳天皇時代に茨田親王が水害を防ぐ爲に水防提を築造されその堤を茨田堤と云ひ現在も一部残っている・・・・』
と書かれている。

また古事記、日本書紀には、仁徳天皇の実績として、
『秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、・・・』
『茨田屯倉を設立・・・』
と、記されている。
屯倉(三宅)とは古代の荘園のことである。

このように難波宮を都としていた仁徳天皇は、多くの河川が流れ込み低湿地であった河内の水害を防ぎ田畑を開発するために難波の堀江の開削と茨田堤の築造を行ったと云われる。
日本最初の大規模な土木事業だったとされている。

大宮神社の北側には「古川」が流れている。
堤はコンクリートで道路より高く積み上げられている。
古代からの水との戦いの結果であろうと、感慨深いものがある。

この地点で茨田大宮を一周したので、ウオッチングは終了である。
後は中央環状線を渡り、なみはやドームの傍を通過して門真南駅に戻るだけとなった。

この地区は古代から茨田郡と云われていることは分かった。
茨の多く生えていた土地でこの名前が付けられたのであろう。
なぜ「まった」と読むのであろうか?
一方、湿地帯を意味する「万牟田(まむた)」との呼び名も使われていて、それらが混同されて、「茨田=まむた」、そして訛って「茨田=まった」となったものと推察される。

茨田は古代には水との戦い、近年では花き市場での戦い、そして高校ラクビーでの戦い、…。
チャレンジは続いている街である。

〔完〕