2020年の某公共放送局の大河ドラマは明智光秀と聞いている。どの様な話になるのか楽しみではある。

歴史は後世の支配者が書かせた物語である。それに対して公共放送の重鎮方がどう評価するのか? 見識を見てみようと思っている。

 

さて、天皇にとって代わろうとした信長であるが、本能寺事件にて止む無く自害させられた。

専制・横暴なゆえに、禁裏・朝廷から不要と烙印を押された信長を死にいたらしめたのは誰か?

もっと言うと、天皇になり替わろうとした信長に、禁裏を守るために行動に移したのは誰か?

歴史の大きな謎であるが、素直に考えるべきであろう。

寺を手当たり次第に焼き尽くした信長、その報いを受けたのか?
自らも、焼き焦げる炎の中で、自害せざるを得なかった。
信長は自害する瞬間、
「皆の気持ちは、こうだったのか」 と、思ったかどうか?
信長も人の子、きっとそう思ったに違いない。

「目には目を、歯には歯を」を、信長に突き付けたのは?
その犯人となり得る可能性を数えだしたらきりがない。
本願寺、叡山を始めとする系累、浅倉、浅井、松永など多くの武家の遺臣・・・、
信長を邪魔とする禁裏・公家や武将の手の者、そしてその意を汲んで動く忍びの者、・・・、まだまだいる。
残念ながら、今となっては、特定できる証拠は何も無い。

信長包囲網は3回目にして、ようやく上手く機能した。
目標達成である。

家康は一旦三河へ帰り、軍をまとめて京都へ向けて引き返して来た。
信長亡き後、自らが都に平穏をもたらすべく、ひと肌脱ぐ予定であった。

そこに伏兵が現れた。秀吉である。
光秀を主殺しと言い触らし、仇討ちを唱えながら、えらい勢いで京都に乗りこんで来たのである。

KY(ケイワイ)とはまさにこのこと。
家康の舞台が横取りされてしまった。
馬鹿馬鹿しくなった家康、もう帰って行った。

今になって考えてみると、秀吉が世の中に出るチャンスは、何をおいてもこの時しか無かったのである。
彼は必死の思いで、舞台に駆け上った。
これで歴史は変わったのであった。

勅命によって官軍となり、秀吉が音頭を取る賊軍と京の入口山崎で戦わざるを得なかった光秀、斉藤利三を先鋒に良く戦ったが、多勢に無勢、敗れて壊走したのは止むを得なかった。

普通ならばその後、秀吉が京都に進軍となるはずであるが、山崎で留まって都を見守るべく天王山城を築いた。
この作戦は上手かった。

一部の者には、亀山城や坂本城に行かせたようであるが、やり過ぎると天皇や禁裏に疎んじられることも良く知っていた。
ただ、「信長を殺めた賊、光秀を秀吉が討ち取った」という噂を広めることだけには余念がなかった。
まさに、一流の舞台演出である。

さて、光秀、
本陣の勝竜寺城に立ち寄り、亀山城を目指したが、途中思い直した。
「秀吉のことだ、亀山へ来ると見た」
「ここは、一旦、嵐山じゃ」、と大覚寺に向かった。

この大覚寺住職と光秀は懇意である。
大覚寺は亀山城の出城のような形で利用させてもらっていた。

光秀と大覚寺の関係を示すものはある。
亀山城の遺構が明智門の名で大覚寺に移築され、現在も残っている。
また、亀山城から一本の水路が、保津川へ繋がっている、城から嵐山まで、保津川下り宜しく、あっという間に出て来られる。
また、亀岡の谷性寺は、光秀の信仰篤き寺、大覚寺の末寺である。
大覚寺とはこのような関係であった。

大覚寺は門跡寺院であるが故に、帝や禁裏の情報は早い。
住職は今回のことは、良く知っていた。

光秀が来るとは思ってはいなかったが、光秀を見て、
「光秀殿、今回は大変じゃたのう・・、
しかし、ここは危なかろう?  追っ手が来るやも知れない・・」
「川向こうの藪の中に、尼寺がある。そこなら追っ手も来まい。案内するゆえ、直ぐに参られよ」
「和尚かたじけない・・。今度も助けてもらったな・・ 」

「光秀殿、貴殿のように、立派な御仁には、まだまだ世の中を鎮める働きをして貰わねばならん。これから、まだまだ、世の中乱れるぞ、拙僧からの頼みじゃ・・」
「しかと、心得たり・・」
と、光秀主従、蔵泉寺へ向かったのであった。

蔵泉寺は、京都市内を見下ろす松尾の杜の中に、現在も存在する。
現在は、付近一帯は住宅地になっているが、当時は竹藪の中、街道からは見え難い寺だったそうである。

光秀の隠れた生活が始まったのであった。

秀吉のドラマも始まった。
秀吉の人懐っこい演出に、信長の厳しさから開放された武将達は付いて行った。
行かない武将が、2人いた。
家康と、信長の筆頭家老柴田勝家である。
家康は、暫くの間、知らぬ顔の半兵衛を決め込んだ。

柴田はそうは行かない。
この武家の風上に置けぬ秀吉の振る舞いに、はらわた煮えくり返っていたのである。
いちゃもん付けられて、長浜城を落とされた。
北陸決戦を余儀なくされたのである。

秀吉の目が、北近江に向いている時に、京都から出ようと考えていた光秀、そのタイミングを計っていた。

一方、信長軍に焼き討ちされた叡山の伽藍再建も始まっていた。
京から多くの宮大工の集団が、叡山目指して登って行った。
光秀主従も上手く紛れ込んで、叡山に首尾よく登ったのであった。
蔵泉寺には、一冬の世話になったことになった。

この叡山には、焼き討ちに遭わなかったお堂が一つだけある。
瑠璃堂という、三間四方の小さなお堂である。
叡山戦争の時、光秀隊はここに陣を置いていた。
撤収の時に、焼こうと思っていたが、そのままになっていた。

改めて見ると、叡山の守り堂の如くに光っていた。
光秀は日課のように、このお堂と薬師瑠璃光如来にお参りして、禊をした。

別格の修行僧として、叡山に来て5年10年15年と経った。
秀吉が死んだという話も聞いた。
また戦が始まるという、噂も聞いた。

光秀は、めきめき頭角をあらわした。
名は「南光坊天海」と称していた。
明智の明を日と月に分解して、日と月が在るところを、天の海とした。
光は、南光坊に・・・。
あまり隠していない。

高僧として栄達できたのは、本人の力はもちろんであるが、家康からの
口添え・援助も少しはあったものと思われる。

「もう良かろう わしを助けてくれ」

関が原の前の年、天海は川越の関東天台総本山「喜多院」住職として、
山を降りた。

喜多院には、徳川家光誕生の間がある。
その間に続いて、春日局の居室が4部屋続く。
秀忠将軍の正室「お江」が身ごもった時に、家康に「頼む」と言われて引き受けたのであった。

「乳母も任す」と言われて、悩んだ。
今は徳川に弓引く者は豊臣遺族・遺臣しかない。
山崎で秀吉に殺された斎藤利三の娘、お福であれば、はっきりした振る舞いの子を育てるであろうと思い、家康に進言した。

家康は、
「そうか、利三ののう・・、
天海殿の最初からの家来じゃな・・・
利三の娘ならば、間違いはなかろう・・
豊臣への恨みも相当なものじゃろう・・
先が見えるようじゃ・・」
「男子であれば、徳川の跡取りじゃ・・。
家康からも、くれぐれも頼むと、言っておいてくれんかのう・・」

「家康殿、もったい無きお言葉、天海感じ入り申す。
この上は、存分に勤めさせて見せましょうぞ・・・」

その後の、徳川家でのお福、春日局の忠勤ぶり、盤石の徳川家を作った一人であろうと思われる。

もちろん、以後の天海の活躍は、表には出ないが、目覚しいものがあったことは云うまでも無い。

何しろ、武将・武家のこと、戦のことも良く心得ている。
帝や公家との付き合いは深い。
更に、寺社の扱いも上手い。
三拍子揃っている。
徳川軍師として、相談役として、これ以上の人はいなかった。

この徳川初期の、天海が築いていった天皇・公家・幕府の強い関係が、長く続く江戸幕府を支えるこことになったのである。

家康臨終の枕元、

「天海殿、ようよう、ここまできたのう・・
わしは先に行くが、のう天海殿、もう一働き、お頼み申す
戦のない世界をのう・・
民の幸せものう・・・

貴殿の作戦はいつも見事じゃった
禁裏、公家、寺、お味方がどんどん増えたゆえ、戦いも楽にできた
戦いの後も、すんなり行った
なんもかんも、光秀殿のおかげじゃ・・

改めて、礼を申す・・ 」

「大御所家康殿、そのお言葉もったいないのうござる
拙僧こそ貴殿のお蔭で、再びの息吹を頂いた・・
こちらこそ、お礼を申し上げる・・・ 」
「ご一家、旗本衆も、ご立派になっておられる
もう、何のご心配もござらん・・ 」
「お元気になられた折、ご一緒に、茶会でもつかまつりとうござる・・
昔話に花を咲かせましょうぞ・・
お約束でござる・・・」

天海は江戸の鬼門、上野に、家康の菩提を弔うために寛永寺を建立した。
山号は東叡山、天台宗関東総本山である。

そして、関東一帯を見下ろす日光の地に、家康公を祀る東照宮を建てたのはよく知られている。

その日光の、西の鬼門、東照宮を見下ろす高台を明智平と名付け、家康公をお護りしているのである。
明智平の西の方向は、中禅寺湖の遥か遠く、光秀のふるさと美濃岐阜、近江坂本、丹波亀山へと、一直線に繋がっているのである。