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 JR奈良駅から桜井駅を経由して大和高田市の高田駅で和歌山線に合流するJR桜井線の駅に「巻向駅」がある。
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 駅名の漢字は「巻向」であるが、この駅の西側は「纏向(まきむく)」と云い、卑弥呼の里、国の始まりの地である纏向遺跡があるところである。
 巻向駅で途中下車し、駅前東の古代の街道「上ッ道」を南下し、JR線路を高架で越える国道169号線を歩き、少し行くと箸墓古墳の正面(前方部)へと到着する。
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 箸墓古墳は宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓に治定(じじょう)されている。
また北側にある周濠は「箸中大池」との名称が付けられている。
 しかしこの箸墓古墳は卑弥呼の墓としての説が云われている所でもある。
その根拠は色々と云われていて、それなりの意味があるが、邪馬台国を九州説とする学者先生からは到底受け入れないものであろうと思われる。
 それはそれとして、古墳の周囲を巡って見る。
南側の側面である。
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周濠があったのかどうかは分からないが、周濠の部分は道路となっている。
少しの遠目で見てみると、右側の後円部が大きく見える。

 古墳の後円部は住宅街と隣接している。
少し北へと離れて後円部を見てみる。
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 そして箸中大池を介した古墳を北部から見てみる。
 大池の堤防から見ると、古墳の先に大神神社のご神体の三輪山が見える。
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古代には、卑弥呼の纏向の居住区と三輪山の間に墓を設けたという考えが伝わって来る。

 箸墓古墳の一周を終了したので、今度は昼ごはんである。
古墳の国道道路を挟んで「三輪山本」という有名な店がある。
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今回はこの食事処で、そうめんを頂くことにしてみた。

 三輪地方は我が国のそうめんの発祥地と云われる。
遣唐使により、小麦栽培・製粉技術、製麺方法が伝えられたとされる唐菓子の一つの、索餅が原型で派生変化したとの説がある
この三輪において崇神天皇の時代(紀元前)に、大物主命の五世の孫である大田田根子命が大神神社の大神主に任ぜられ、その後、後世が飢饉と疫病に苦しむ民の救済を祈願したところ、神の啓示を賜り三輪の地で小麦を造り、そうめんを初めて作ったと伝承されている。
 まだ寒い時期であるので、温かいそうめんである「にゅうめん」が嬉しい。
席についてメニューを眺めたところにゅうめんの並びに「かまあげ太そうめんセット」というのを見つけた。
太そうめんとは初めて聞く麺である。
興味本位でこれをオーダーしたのであった。
 食事処はテーブルばかりの落ち着いた雰囲気の所である。
昼であるのでほぼ満席である。
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 待つこと5分ぐらいか、目的の「かまあげ太そうめんセット」が運ばれた。
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 お椀の湯に浮かべられた太そうめん、普通のそうめんの2倍程度の太さである。
中央に鰹節が浮かべられている。
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太そうめんを囲むように、出汁と薬味、温泉卵、ようかん、そして柿の葉寿司である。

 出汁に薬味を入れて、更に温泉卵を入れてかき混ぜ、さあ頂いてみよう。
 味はやはりそうめんである。
釜揚げうどんとも違う。にゅうめんとも違う。
ストレートな出汁で、美味しく頂けるのであった。
 そして柿の葉寿司、和歌山や奈良の紀ノ川・吉野川筋の名物である。
江戸時代に紀州藩の漁師が鯖を塩漬けにして、水運を利用し紀ノ川の上流へ運び込み行商していた。
大和へ着くころには、塩気が強すぎたため、薄切りにしてごはんと一緒にすしにして食べることを編み出したのが始まりと云われている。
更に、殺菌効果のある柿の葉に包むことにより、日持ちも良くなり、おまけに柿の葉の香りがすしに移り、風味が良くなると云うのが柿の葉寿司である。
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 そんな柿の葉寿司を頂き、デザートのようかんを頂き、完食したのであった。
 名所探索、このご近所を訪ねてみる。
 箸墓古墳の南約300mの所に変わった小学校がある。
織田小学校と云う。
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 織田と云えば戦国時代の織田信長などの織田家のことである。
この小学校は織田家の陣屋「芝村陣屋」の跡地に建てられたものである。
校舎もその雰囲気が良く出ている建て方である。
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 織田家に織田有楽斎(長益、うらくさい、有楽町の地名の起源)という信長の弟がいる。
この有楽斎の四男長政が戒重藩→芝村藩を起こしたという経過を辿っている。
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 小学校の横に建勲(たけいさお)神社がある。
織田信長を祀る神社であるが、芝村藩陣屋の中に当初から祀られていた神社であると云われている。