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JR東北本線の二本松駅で途中下車した。

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二本松市は、高村光太郎の妻の高村智恵子の生家の造り酒屋があることで良く知られているが、駅からは遠そうなので今回はパスし、駅から歩いて行ける二本松城を訪ねて見ることにした。

 二本松城跡は、観光案内書で頂いた地図によると駅の北の1.5Km位の所にある。
兎に角歩いてみることにした。
 駅前の道路を北へ少し歩くと広い道路と交差している。かつての奥州街道である。
そこには二本松神社という大きな神社が鎮座している。
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後程余裕があれば訪れて見ることにして、神社前を右の東方向へと歩く。

少し行くと北方向へと行く道路がある。

 登城道である。

 直ぐに大手門跡がある。
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 その付近は、図書館、商工会議所などの官庁街である。
 大手門があるならその先は苦労なく城跡まで行けるのかな? と思ったのが大きな間違いであった。
 登城道は先ずは緩やかな登りとなる。
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暫く行くとそこからはかなりな急な登りとなる。
やっと下りになり、一山超えたところで平地に出る。
その先の山全体が城跡である。
 頂上に石垣が見える。
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そこまでは100m程度の高さはありそうである。

 先ずは案内図に従って、見どころを見てみよう。

城跡域の右手である東側に史跡「旧二本松藩戒石銘碑」がある。

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「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺 寛延己巳之年春三月」
と記されている。
意味は「武士の給料は人々の汗と脂の結晶である。民は虐げ易いけれども、神を欺くことはできない。だから民を虐げると、きっと天罰があるぞ」という戒めである。
この二本松藩は信長の家臣の丹羽長秀の孫が、明治まで繋いだ藩である。
 どこかの国の総理や大臣には、民主主義の根幹、主権在民の基本として、肝に銘じていただきたいことである。
 城の正面の千人溜へ回ると、城名の標柱や二本松少年隊の像がある。
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 この少年隊も会津の白虎隊と同様である。
 いよいよ城が攻められると知った少年達が力になろうと奮闘し、散っていったものである。
西国(薩摩・長州)の武士達が大義名分があるのであろうが、他人の土地に攻め入り殺戮をしたと云う事実は、永久に残るのであろうと思われる。
 そしてその先は、再建された箕輪門と塀である。
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 箕輪門を入ると、そこは三ノ丸跡であるが、現在は何もない。
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 天守まで登れる遊歩道があるので登ってみることにした。
遊歩道の両側には木が生い茂っているので、格好の日陰の散歩道である。
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 そこそこ登って本丸の石垣が間近に見えた時にはホッとした。
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 やっと頂上である。

天守の石垣も整備されている。

また四周の櫓跡も整備されたのであろうか、健在である。
 頂上から見下ろす二本松の街は、はるか下に見える。
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下城は脇道を戻ることにする。
途中、搦手門跡、二本松少年隊顕彰碑、智恵子抄碑がある。

また、土井晩翠の歌碑もある。

 天守本丸址から降りると、西側山脈の案内がある。
智恵子抄に出てくる安達太良山も見える。
写真の左から、和尚山、安達太良山、鉄山、箕輪山である。
 急速に下りていくと、丹羽神社や、傘松、茶室がある。

そして城の正面へと戻ったのであった。

 昼には少し遅い時間となった。
食事処が唯一開いていた。
城の前に正対するレストラン「KSM]である。
 そう云えば、二本松城は通称霞ヶ城と云われている。

とにかく入って食事にしよう。

 本日のランチは「だしかつ丼」のセットと書かれている。
どんなカツ丼か不明であるが、兎に角頼んでみた。
 10分ぐらいして出てきた。

丼飯にカツ3枚が乗せられ、それに出汁が掛けられている。
そして、味噌汁と香の物である。

 かなりな空腹であったので、一気に頂いた。
出汁は良くは分からないが、醤油ベースの昆布出しの様である。
 今までに、ソースかつ丼や醤油かつ丼を食べたことがあるが、その味でもない。
とにかく出汁が勝っているような味である。
 しっかりと完食し、店を後に、丘越えの二本松駅に戻ったのであった。