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 福島県の郡山駅で磐越西線に乗り換え、会津若松駅で下車した。
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会津若松市は、幕末の戊辰戦争で、西軍(新政府軍とも云う)に攻められ大きな痛手を負ったところとしてよく知られている。会津若松駅から東方向にある飯盛山に向かって、白虎隊に因み名付けられた「白虎通り」が延びている。

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幸いにこの道には、「あかべえ」の愛称のまちなか周遊バスが30分間隔で走っているので、これに乗って、飯盛山に向かうことにした。

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 飯盛山の麓は土産物屋が並ぶが、その先にはスロープコンベアと云う動く坂道があり、これを利用すると、中腹の白虎隊の墓所まで楽に登ることができる。
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 墓所には、白虎隊士の少年たち19名の墓が並べられている。
またその横に、戊辰戦争で殉死した会津の婦女子200名の霊を弔う碑、当時の藩主松平容保公の弔歌碑もある。
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 戊辰戦争の会津戦争における白虎隊については、良く知られている。
 会津を護るべく四神に因む「白虎」「青龍」「玄武」「朱雀」の4隊が結成された。
 白虎隊は総勢343名と推定されているが、そのうち戸の口原十六橋へ二番隊の37名が向かったと云う。
しかし戦況悪く、この場所を捨て、今度は城の防備へと向かおうとするが、内20名は飯盛山にて、城の方向に煙が上がっていることから、既に落城と思い、会津を守り切れなかったという自責の念に苛まれ、飯盛山で自刃したとの悲痛な物語がある。
 自刃の地は墓所から少し下がったところにあり、鶴ヶ城を遠望することができる。
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 ただ一人飯沼貞吉少年が地元の人の介護で蘇生されたが、貞吉は生き残ってしまった自分を責め、会津の地から離れ二度と戻ることはなかったと云われる。
長じて通信技師として活躍した飯沼氏であるが、その飯沼氏が白虎隊の自刃に至るまでの詳細を語ったことで、白虎隊の物語が世に知られることになったとの経緯がある。
その飯沼翁の墓も、このエリアに建てられている。
 墓所から少し北側に下がったところに、面白いものがある。
通称「さざえ堂」と云う重要文化財「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)である。
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六角三層で、内部は螺旋状に一方通行で上下することができる構造である。
また内部には西国三十三ヵ所観音菩薩を安置していたとのことであるが、明治の神仏分離で撤去されているとのことである。

 また、その対面には宇賀神堂が祀られている。
さらに下がると厳島神社が祀られている。
 そのほかにも、白虎隊記念館やら伝承史学館、旧滝沢本陣などが付近にある。
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 バスに乗って駅からこの場所には10分位であった。
2Km位の道のりであろう。
それなら歩いても30分程度と思われるので、歩きながら途中に食事処を探してみることにした。
 白虎通りと云うが、途中にはあまり見どころはない。
途中右手の会津大学短期大学部キャンパスを過ぎると広い道路と交差する。
交差道路は「千石通り」と云う。
 その先左手にラーメン屋があった。
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 店名は「麺や D一」、表の看板を眺めて見ると、「山椒ラーメン」の表示もある。
聞いたことが無いラーメンである。
これは味わってみる価値ありと店に入ってみた。
店の造りは新しそうで、店内も清潔である。
カウンターとテーブル合わせて30席ぐらいの中規模の店である。半分ぐらいの客数であり、テーブルに座ることができた。
そして接客嬢に「山椒ラーメン」と注文したのであった。
さてさて、どんなものが出てくるのかわからない。暫く待つことになった。

 10分ほどしてラーメンが出てきた。

見たところ普通の会津ラーメンまたは喜多方ラーメンの醤油味である。
ただ一つ違うのは、刻み葱の上に黒い塊が乗っていることである。

 接客嬢の説明は、
「最初はそのままでスープを味わってみて下さい。そして、その後に黒い山椒の塊を崩して、味わってみて下さい」であった。
 先ずはスープを啜ってみた。
鶏出汁の味がムンムンする。いわゆる鶏ガラ出汁のラーメンそのものである。
 今度は山椒を崩して、スープと混ぜてみた。
鶏のムンムンは消えた。山椒の味は少しはするが、極めて爽やかなスープとなった。
不思議なものである。
これなら鶏出汁が苦手な小生でも、美味しく味わうことができる逸品である。
 メンマ、チャーシュー、そして特徴のある縮れ麺と交互に頂きながら完食となったのであった。
 このラーメン屋から少し駅に歩いたところに「蚕養国(こがいくに)神社」がある。
少し寄り道して、会津若松駅に戻ったのであった。