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 京都市営地下鉄の東西線は東山を抜け、山科駅から南へと下り、宇治川に近い宇治市六地蔵地区へ至る路線である。
この地下鉄路線の終点「六地蔵駅」の一つ手前に「石田駅」がある。
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 山科区石田地区の中心駅である。
この駅の北方7~800mの小栗栖(おぐりす)という所に戦国時代の伝説の場所「明智藪」へと出かけてみた。
 明智藪の明智とはもちろん明智光秀の明智である。
 伝説では、織田信長が京都の本能寺に逗留中に家臣の明智光秀軍に襲われ、自害を余儀なくされた後、明智光秀が中国大返しで取って返した羽柴秀吉軍に戦いを挑まれて、山崎の戦いとなった。
天王山の戦いと云われるものである。
そして光秀軍敗戦の後、光秀は身の回りの家臣を連れ、居城である近江坂本に逃れる途中に、この小栗栖の藪にて、信長の近臣の小栗栖館の飯田一党の襲撃にてあえなく最期を遂げたところであると云うのが通説である。
 歴史は勝者が記述したものなので真偽のほどは全く不明であり詮索は不可能であるが、この光秀が襲われ最期を遂げたと云われる明智藪があることは現在の真実である。
 明智藪は久遠山日蓮本宗 本経寺の境内の一部である。
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 その境内の東側は藪である。
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そして、その藪へと行ける階段も降りている。

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 その方向へ下の道路から回り込んでみると、石柱と上述説明の石板がある。
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石柱は藪の入り口にあり、藪は奥へと延びている。
左手には、薮の土留擁壁も整備されている。
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こんなところで、逃避行の光秀一行が襲われたとしたら、一たまりもないとは思うが、思慮深い光秀のこと、こんな場所を通ったり、まして休憩したりするはずが無いと思われるが、如何であろうか?

 おまけに、小栗栖から少し北へ行ったところに光秀の墓が祀られている。
胴塚だそうである。
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 歴史の真実は霧の中であるが、光秀は前日に愛宕山山頂付近にて連歌の会をしていたので、信長を襲えるタイミングも無く、朝廷と親しかった光秀は京に攻め上る秀吉軍から朝廷を守る戦いをし、敗れた後、嵐山の蔵泉寺という尼寺に隠れ住んだと云う説がある。
そしてその後時期をみて、叡山の僧となり、天海坊の名で家康に尽くし、他界した家康を日光東照宮に葬り、その日光から西国を望む地を「明智平」と名付けたという説もある。
そしてその明智平は現在も日光の有数の観光地として存在しているのも事実である。
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 観光はここまでにして石田駅の方向へと戻る。
明智藪のある小栗栖は京都市の伏見区である。
 小栗栖のURや府営の団地を抜けると川がある。
山科川と云い、この川を渡ると山科区に入り、すぐに石田駅がある。
石田駅の近くで昼食をと探してみるが、適当な食事処が見つからない。
 駅から7~800m東の醍醐街道でる府道沿いのマンションの1階に「M飯店」と云う店があった。
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四川ラーメンを売りにする中華料理店である。
早速入ってみた。

 小上がり座敷、テーブル、カウンター合わせて30人くらいの大きな店で、7割ぐらいの入りである。
カウンターの隅に腰を掛けて、さあ注文である。
店員嬢に四川ラーメンとオーダーしたが、「味はどうしますか? こっさりとあっさり、それにもっと辛いのがありますけど…」と聞かれた。「こっさりって何?」と聞いた答えは「豚骨ベースです」とのこと。
かつて天下一品というラーメン店へ行った時も「こっさり」という味があった。
それは天一ラーメンは元々こってりしているので、あっさり味も作り、その中間のこっさりを作ったとのことであった。
ここも同じ発想であろうか? それならと云うことで「こっさり四川ラーメン」を注文したのであった。

 待つこと10分位か? ようやくラーメンが出てきた。
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 スープはそう赤くはない。
具は表面に野菜が沢山乗せられている。
麺はと云うと中位の細麺、低鹹水のストレート麺である。
どこか奈良の天理ラーメンに似たようなところがある。
 しかしスープは辛い。
最後までいけるかな?と思ったが、慣れてくるものである。
少し食べたところでもう辛さは余り感じなくなった。
 四川ラーメン、今まで辛いだけのラーメンかと思い敬遠していたが、スープと麺がよく合う。
そして野菜は一服の清涼剤となり、これも良くマッチする。
 最後まで美味しく頂き、店を後に石田駅に戻ったのであった。