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 戦国から江戸時代にかけて但馬国の政治の中心地であった出石は、但馬国では唯一の城下町であった。
 当初但馬の守護であった山名氏は、出石の北側の山に此隅山(このすみやま)城を築き支配していたが、織田信長の西国侵略により秀吉軍に攻め滅ぼされたが、最終的に信長には許され、領地は安堵されたので、今度は南の山上に有子山(ありこやま)城を築いた。
 しかし、毛利が台頭する中、山名氏は毛利方に付き信長と戦い敗れ、但馬山名氏は滅亡したのであった。

その後、秀吉が天下を支配する時代となり、小出氏が領主となった。
そして関ヶ原を経て江戸時代には有子山上の城を廃止し、山麓にあった館を整備し、出石藩の藩庁とし、出石城と名付けた。
その後、小出氏から松平氏へ、その松平氏が信州上田へと改易されたのに代わって、上田から仙石氏が藩主となり、明治維新まで続いたという歴史のあるのが出石である。

 現在の出石と云えば、蕎麦で知られる。
その蕎麦であるが、仙石氏が信州からもたらしたものと云われる。

初代藩主となった仙石政明は大変な蕎麦好きで、信州一の蕎麦職人を連れて入府した。
その蕎麦がいつの頃からか城下に広まり、そして現在は観光も相俟って40数軒のそば屋が店を連ねる全国でも珍しい蕎麦の街となったのである。

 出石へは鉄道では直接行けないので、隣町の養父(やぶ)市八鹿(ようか)の八鹿駅からバスで行くことになる。
 話は更に横道に逸れるが、実は出石にも鉄道があった。
明治時代の末、山陰線が京都から鳥取まで開通した時には出石を通らなかったため、但馬の中心機能は出石の北の豊岡へと移されていった。
それに危惧を感じた出石の人々は鉄道建設を願い出資して、山陰線江原駅から軽便鉄道を敷設したのであった。
 しかし、その鉄道は出石と八鹿の間を流れる大河「円山川」を渡るが、この円山川は優しい名前に反して暴れ川である。
氾濫などの自然災害が多く発生し、営業不振となり戦後には廃線となってしまったのであった。

出石に着いた。
城の周りや大手通りの商店街は大都会並みの人出である。
先ずは蕎麦屋を探そうと歩いてみる。行列ができている店もある。

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 城跡の大手門櫓台の石垣の上に建てられている「辰鼓楼」の間近の土産物屋の店員嬢に聞いてみると、蕎麦屋も併せて営業しているとのことでサービス券を貰った。
そうなるとその店に決定である。名前は「TR屋」と云う。
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 店内に入ってみると広い座敷であるが、ほぼ満席である。
席に案内されて、さあ注文はどうしよう?
 メニューを見ていると、やはり皿そばとなるところであるが、汁そばもある。
周りの座席の人たちは全て皿そばを食べている中、出石の汁そばはどんなものなのか? と興味本位で「やまかけそば」を注文してみた。
 5分ほど待って、出された。
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トッピングは長芋、生卵、かまぼこ、刻み海苔の普通のそばで特に変わっているものではない。

 失敗したかな? と思いつつ出汁を一口してみると、関西風であるが昆布鰹出汁が良く効いている。
そば麺はどうか?
熱い出汁を浸透させると、のっぺりした食感になってしまっている。
やはり盛りそば用なのであろう。思った通りであるが麺そのものは不味いわけではない。
全体に爽やかそばとなっていて、最後まで頂いたのであった。
 店を出て出石城跡の見学である。
城跡の下から見上げると、幾重にも重なった石垣が見える。
また、左の高い山の頂上には有子山城の石垣も見える。
 登城橋、登城門を潜り、本丸西隅櫓を回り込んで、本丸跡地に出てみる。
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西には登城門から見上げた西隅櫓がある。

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 反対の東には東隅櫓があるが、どちらも再建である。
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 また西から東に向いて感応殿という社が祀られている。
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これは、出石藩主仙石氏の祖である仙石秀久を祀ったものである。

 また本丸から下に下ると東側には稲荷神社への神橋、鳥居などを配したの参道口がある。
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参道石段を登り詰めると本丸の上の稲荷郭に有子山稲荷神社が築城当時から祀られていて、江戸時代から身分を問わず参詣が許されていたそうである。

 城下に戻り、街中を見てみると、江戸後期建築の家老屋敷もある。
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これは仙石騒動の中心人物であった仙石左京の屋敷がったところと云われていて、現在は博物館となっている。