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 東海道新幹線の米原―京都間に乗車していると、線路沿いの西に、学校の体育館か何かにユーモアな絵とともに書かれた「近江商人発祥の地 てんびんの里 五箇荘」という大看板が見え、いつも気になっていた。
調べてみると、五箇荘金堂町(ごかしょうこんどうちょう)と云うところが、江戸末期から昭和初期にかけて活躍した近江商人の発祥の地であり、その町並みが重要伝統的建造物群保存地区に指定されているとのことである。
 五箇荘へは近江鉄道五箇荘駅が最寄りであるが、金堂町までは1km程度の距離がある。
途中、国道8号線を渡るが、その場所に「観峰館」という少し変わった建物がある。
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日本の習字の創始者「原田観峰」ゆかりの博物館や習字のイベント館だそうである。

 ここらあたりが中間点である。
もう少し行くと小学校がある。東近江市立五箇荘小学校と云う。
その小学校の横に案内板があり、街の歴史や重伝建の範囲が説明されている。
その中で、寺社仏閣や民家建造物は建造物は197棟が指定されているとのことである。
 学校の裏を通っている景清道が金堂町重伝建の東限である。
そこから街中にかけて「祭・馬場通り」と云う通りが伸びている。
その入り口の右手に鬱蒼とした木立に囲まれた神社がある。大城神社と云う。
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推古天皇の時代に聖徳太子が当地に金堂寺を建立し、その護法鎮護のために神社を勧請したのが始まりと云われる。
当初の祭神は高皇産霊神、伊邪那岐命などであったが、後に天満宮を勧請して、主祭神は菅原道真公である。

 祭・馬場通りを進むと、左手には大きな邸宅が並ぶ。
暫く行くと交差点に出る。交差する通りは寺前・鯉通りと云う。
交差点を囲むように、安福寺、浄栄寺、弘誓寺がある。
聖徳太子が金堂を建て不動院としたのが浄栄寺の始まりとされている。
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 水路には大きな鯉が泳いでいる。
水路に沿って交差点を右折、鯉通りを北へと進む。
 この通りの左手に、先ずは小説家の外村繁邸、そしてその北に本家の外村宇兵衛邸がある。
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宇兵衛は呉服太物を扱い、明治期には全国長者番付にも名を連ねていた商人である。

 両外村邸の間の道は「花筏通り」という。
外村繁の小説、「花筏」より名付けられたものである。
 花筏通りを通り抜けると、そこは「あきんど通り」と交差する。
その右手に中江準五郎邸がある。
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準五郎は朝鮮や中国で三中井百貨店を創設し、その後20ほどの店舗を経営した人物である。

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 南へ下がると、勝徳寺の寺門は寺には相応しくない長屋門になっている。
これは江戸時代この地が大和郡山藩柳沢家の領地であり、その金堂陣屋の陣屋門が移設されたものである。
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 その南に東へ入る路地がある。
「陣屋通り」と云い、通りにある稲荷社がその陣屋跡である。
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 元のあきんど通りを南へ進むと、金堂まちなみ保存交流館がある。
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休館日であったので、無視して進むと、きぬがさ山や西国三十三ヵ所観音正寺への登山道路と交差し、重伝建の見学は終了となる。

 さて昼ご飯であるが、歩いたところには食事処は一切なかった。
どうしようかと思っているところに、前方に観光センターなるものの看板が見つかった。
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 渡りに船と、早速尋ねてみた。
産直をメインにお土産やら名物を売っている店である。
表にはランチなどの看板も置かれている。
 何があるのかわからないが、中へ入り、食事処の前まで行ってみた。
食券制であるので、販売機の前で何か変わったものはないかと上から順に探してみた。
何も無い。もたもたしているのを見て店員嬢が現れた。
 「本日のお薦めは、七夕そうんめんです」と云う。
そしてその食券の選び方も指南して貰った。
その場で食券を渡し、テーブルに座ったのであった。
 「うちは漬物の無料バイキングをやってます。よかったらどうぞ…」
とのことで、6種類の漬物を小皿一杯に盛り付け、食べてみた。
その中で、蕗と瓜の浅漬けが格段に美味い。
もう一度それらを盛り付け、そうめん待ちとなったのであった。
 10分ぐらいした頃、七夕そうめんが出てきた。
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 トッピングはカラフルで鉢一杯である。
胡瓜は天の川、人参とオクラは星である。
その他の野菜の役割は、また大きなトマトの役どころは何であろうか?
 ともかく、早速頂くことにした。
暑い日にはそうめんは極めて美味い。
そうめんに各種野菜を絡めながら食べると、これもオツなものである。
最後まで美味しく頂き、五箇荘の探索を終了したのであった。