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都会にある公設の中央卸売市場には、大抵の場合、付属した食事処がある。
敷地内の片隅の関連棟や市場棟の2階などにそれはある。
食事処は暗いうちから働く市場の関係者の空腹を満たしたり、寛いだりする場所ではあるが、通りがかりの我々一般人でも利用することができる場合が多い。
 今回、JR関西本線の天王寺駅から奈良方面へ一駅の「東部市場前駅」で下車し、大阪市東部中央卸売市場を訪ね、食事処を探してみることにする。
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 駅の東側の道路(今里筋)を挟んで反対側は百済貨物ターミナル駅である。
梅田の貨物駅廃止に伴い改修整備されたものである。
 また関西本線には、かつて現在の東部市場前駅の少し天王寺寄りに「百済駅」があった。
廃駅となっていたが、平成になって、それに代わる東部市場前駅が新設されたのである。
 市場へは駅から歩いて7~8分の所の、今里筋の両側にある。
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 魚を扱う市場の中を覗いて見ると、もう昼頃であるので、全ては終わり、後片付けのところもある。
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 市場の敷地の入り口に長屋のような形で、関連棟が3棟あり、銀行なども店を構えている。
 東棟、西棟、北棟とあり、覗いて見ると幾つかの食事処もある。
和食、麵類、中華などである。
 店は昼過ぎまでは開いている。
少し迷ったが、市場であるので新鮮な魚をと和食の店に決め、入ったのであった。
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 店の名は「寿しHD」、カウンター5、6席とテーブル4卓で、客は半分位であった。
 カウンターに腰を掛け、さて注文である。
目の前に「まぐろしらす丼」と貼られていた。
まぐろ丼でもよかったが、しらすとのコラボも美味そうである。
これを注文したのであった。
 5分ほど待って料理が出てきた。味噌汁付きである。
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わさびを乗せ、醤油タレを掛けて、さあ頂いてみよう。

 ご飯は酢飯である。寿司屋なので当たり前であるが…。
しらすは小ぶりで新鮮である。
まぐろはキハダであろうか、大きな切り身が5切れ、これも市場ならではの新鮮な味わいである。
 市場の海鮮丼であるので、文句なしに美味い。
しらす、まぐろと交互に頂きながら、味には満足したのであった。
量は少なめであったのが、少しの心残りであった。
 さて、食事の後は付近の観光である。
駅に戻ると、付近の住所地は「杭全1丁目」と表示されている。
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「くまた」と読む。大阪の難読地名の一つである。
杭全に触発され、隣の駅になるが、「杭全神社」へ向かうことにした。

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 一駅電車に乗って「平野駅」で下車する。
杭全は東住吉区であるが、杭全神社のある「平野駅」は平野区である。
どうしてこのようになっているのか?
それは神社を訪ねて見れば分かることとなる。杭全神社へは、平野駅から南へ少し歩き、国道25号線を東進すると一ノ鳥居へと至る。

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参道はしばらくは一般の道路である。

 一般道路は注連縄柱のところで左折する。
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注連縄柱から先には神門があり、神門を潜ると境内である。

 正面には拝殿が祀られている。
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 そしてその後ろに第一本殿から第三本殿まで、3つの本殿が祀られている。
これら本殿は重要文化財である。
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 杭全神社は平安初期の創建である。
征夷大将軍の坂上田村麿の子の広野麿が杭全荘を領地として賜わったことに端を発する。
広野麿はこの地に居を構え、その子当道が素盞嗚尊を祀る祇園社を創建したとされる。
 このことから杭全荘は、先の東部市場の辺りから杭全神社の辺りまで広がっていたと考えられる。
また、平野という地名は、広野麿から来ていると云われている。
 杭全とは、この辺りの平野川の氾濫を防ぐために杭を全て打ち終えたということが由来であると云われる。
また、貨物駅の百済と云う名は、朝鮮半島で新羅との戦いに敗れた百済国の一族が、その場所に疎開したことが由来と云われる。
 いずれにせよ、田村麿の孫の当道が創建した祇園社が現在の第一本殿である。
 その次は、平安時代の末期に熊野證誠権現(伊弉諾尊)を祀ったのが第三本殿である。
 そして後醍醐天皇の建武の新政の時代に、熊野三所権現(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)を勧請建立したのが第二本殿である。
この時、後醍醐天皇より「熊野三所権現」の勅額を賜ったと云われる。
 杭全神社という神名は明治以降に定まったと云われる。
 また、この神社には日本で唯一の連歌所がある。
連歌所は大坂の陣で焼かれたが、江戸中期に再建されたものである。
 さて、平野と云えば中世以降の環濠集落である。
この神社を取り巻くように、環濠の跡が残っている。
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