守口市の大日駅から梅田へと向かい、東梅田から南下して八尾市へと向かう谷町線は、東梅田から先は国道一号線を東進し、桜の通り抜けで知られる造幣局の手前辺りで天満橋筋に通りを変え南下を始める。
その先、大川を渡り天満橋駅からそのまま南下して、谷町(谷町四丁目)、谷六、谷九と「丁目駅」が連続し、夕陽ケ丘、天王寺へ向かう。
もし両鉄道が同じ駅名であるとしたら大いに顰蹙ものであるが、駅名が違うから良しとしたい。
「谷九FR里」と云う。
美味しいうどん屋として、多くの人に親しまれているとのことである。
どんなうどんが頂けるのか、早速入ってみた。
小上がりもあるようであるが、それは奥にあるのであろうか?
とにかく大テーブルの一角に座り、壁際のメニューを見てみる。
ここでは大阪うどんの基本となる「きつねうどん」を頼んだのであった。
芸能人にも人気の店なのであろう…。
出汁は黄金色の醤油色の半透明である。
揚げは一枚物の普通サイズ、他に刻み青ネギが乗っている。
テーブルにあった天かすを適量乗せて、さあ頂いてみよう。
出汁はというと、やはり大阪のうどんである。
昆布と鰹節が効いた味で、美味い。
揚げは甘めに味付けがされているので、出汁に溶け込むと少し甘くなる。
これがきつねうどんの味わいである。その美味さを堪能して、店を後にしたのであった。
先ほど参道の前を通ってきた生國魂(いくたま)神社へと云ってみることにするが、神社の住所地は生玉町である。
正面の大鳥居を潜ってその鳥居の奉納者の名前を見てみるとサントリーの創業者の「鳥井信治郎」と書かれている。流石に難波大社である。
先ずは右手に、上方落語発祥の地「米澤彦八郎の碑」がある。
元々は大坂城の東の鴫野に祀られていた神社で、淀君が足繁く通ったという、鴫野の弁天さんである。
この地に遷座され、現在は淀姫神も合祀されている。
「浄るり神社」が祀られている。祭神は近松門左衛門を始めとする浄瑠璃文楽関係者である。
少々長くなるが、そのくだりを掲載させて頂く。
内本町の油屋平野屋の手代「徳兵衛」と、堂島遊郭の遊女「お初」は恋仲になっていた。
この日、生國魂(いくたま)神社でこの二人、偶然に出会った。
お初はこのごろ流行っていた三十三ヶ所参りの客にお供して来ていたのであった。
「近頃、とんとご無沙汰だねェ~」と、徳兵衛をなじるお初、
「実は、大変な目にあって、それどころではないんだ・・」
客もいるので、その場はそれで別れた。
気の早い店の叔父から、徳兵衛の継母に多額の持参金が渡されていたのであった。
結婚を固辞した徳兵衛は、店は首にはなったが、継母から金は取り戻していた。
しかし、どうしても金が要るという連れの九平次に3日限りの約束で、その金を貸してしまったのであった。お初と出会った直後に、生國魂神社に、九平次が現れた。
「もう期限も過ぎている 金を返してくれ」
「何を寝言を言うとるか? 貴様から金など借りてないわい」
「何を言うか ここに証文も持っている ほら~ァ」
「こんなでたらめな紙切れを作りよって・・」
「お前のハンコも押してある 間違いない」
「ハンコは偽造だな 良く出来ておる 詐欺師めが・・」
と、取り合わないばかりか、詐欺師呼ばわりされる始末であった。
更に、食い下がると、殴る蹴るの暴行騒ぎ、引かざるを得なかった。
その夜、お初の遊郭に行った徳兵衛、金も無いのでこっそりと遊郭に入り込んでいた。
そこへ九平次が現れたので、床下に隠れたのであった。
お初に素っ気無くされた九平次、徳兵衛の悪口を散々言って、さっさと帰っていったが、もうだめだと感じた徳兵衛、床の下からお初の足に、「し」という指文字を書いて、足をひっぱり、死に行く決意をあらわしたのであった。
そして、お初もそれに応えたのであった。
いよいよ、心中の道行き場面、 夜半に、遊郭から抜け出した2人、 近松の名調子は、
「この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとふれば、
あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ
あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、
寂滅為楽(仏教で言う、涅槃、さとりの境地)と響くなり~~ 」
時は六つ午前4時、人目に付かぬように、北側を大きく迂回、今の大阪駅の辺りの、荒地のぬかるみの中を、手を取り合って、露天神(お初天神)を目指したのであった。
神社の森へ到着した二人は、いよいよ心中の場面を迎えたのであった。