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 大阪市の中心部に堀江と云う東西に長い長方形の地域がある。
北は、かつての長堀川で現在は埋め立てられている長堀通、南はなんばOCATの北の道頓堀川との間の部分である。
そして東西は、東はこれも埋め立てられた西横堀川で現在の阪神高速の高架道路、西は木津川までの間の部分である。

 さらに地域を通っている道路で云えば、西から新なにわ筋、あみだ池筋、なにわ筋、そして四つ橋筋と主要4道路が南北に通っている。

この堀江の地域の中央部には、かつて東西に流れる運河の堀江川が流れていた。
これも埋め立てられているが、この川を境に北と南に分けられ、それぞれ北堀江、南堀江と呼ばれている。

この堀江の地域を探索してみようと、西北部にあたる地下鉄「西長堀駅」で下車した。

 西長堀駅は新なにわ筋と長堀通の交差点「鰹座橋」にある駅である。
ここの鰹とは高知の鰹である。
名前の通り土佐から海路にて運ばれた鰹節の取引場で、この交差点の南には土佐藩の蔵屋敷があった。

 そして駅の少し西側に土佐藩の鎮守であった土佐稲荷神社が現在も鎮座している。

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この地は明治になって土佐藩屋敷が廃止され、岩崎弥太郎に譲り渡された。
弥太郎はこの地で海運業をスタートとして事業を始め、のちに巨大な三菱グループを生み出す切っ掛けになったところである。

 新なにわ筋、そしてすぐ東のあみだ池筋を渡ると、そこにはあみだ池和光寺がある。

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あみだ池とは、長径40mぐらいの小判型の池で、池の中央には放光閣という宝塔が祀られている。
一説によると、日本最古の仏像と云われる長野の善光寺の本尊の阿弥陀如来が、朝鮮半島百済国より仏教伝来とともに伝わったのであるが、仏教を良しとしない反対勢力の物部氏によりこの池に棄てられたという。

 それを信濃国司の本田善光がこの池より救った。
それ以後この池があみだ池と云われるようになったとのことである。
そして救い出された阿弥陀如来はその後、長野の善光寺に祀られたと云われる。
奈良時代よりも少し前の飛鳥時代のころのことである。
 その後、江戸時代も元禄の頃、堀江の開発の時に善光寺の智善上人がこの地に蓮池山智善院和光寺を建立し現在まで続いている。
 今度は、なにわ筋を渡り四つ橋筋まで来ると、長堀通との交差点に四ツ橋の旧跡がある。
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東西の長堀川と南北の西横堀川との十字水路に架かっていた橋が模擬設置されている。
上繋橋、下繋橋、炭屋橋、吉野屋橋の4つを云う。

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 そこから四つ橋筋を南下する。なんばへの方向である。
先ずは北堀江の通りを垣間見ながら進む。
 四ツ橋ランプ西と云う交差点がある。
この交差点の東西の道路が堀江川を埋め立てたものである。
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ここから南が南堀江である。

 南堀江では街中に入り、商店街を見ながら歩いてみる。
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洒落たレストラン風やアパレルショップがそこここにある。
通行人も急に若者のグループが多くなり、賑やかとなる。

 さて、そろそろ昼である。
食事処を探してみた。
 堀江「YB」という、昔からのそば屋があった。
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YBというと、そば屋の由緒ある名前である。
おもての看板を見てみた。かきそばや牡蠣うどん、かき丼が季節限定で食べられるようである。
早速入ることにした。

 30人ぐらいの店で、7割くらいの詰まり具合である。
 メニューを見ると「かき丼 時価」とある。
接客嬢に「いくらなん? 一万円もすると払えんからね」と聞いてみた。
接客嬢は笑いながら「いくらなんでもね…」と、1000円以下の値段を提示してくれたので安心して注文した次第であった。
 5分くらい待って、かき丼が出てきた。漬物付きである。
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 若干の野菜を混ぜ、たっぷりの玉子でとじられている。
トッピングには刻み海苔、期待が持てる。
 かきの粒を一口、小振りであるが生がきを食べているような味わいである。
結構沢山のかきが入っている。ざっと10個ぐらいであろう。ご飯へと進む。軟らかい。雑炊の感覚である。
なるほどなるほど、しっかりしたご飯とかきの軟らかさでは合わない、と勝手に思いながら最後まで美味しく頂いたのであった。

 店から南へ下がると、すぐに道頓堀川である。
八角形の湊町リバープレイスが間近になったところで、堀江の探索を終了した。
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