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京都市の伏見区に、近鉄京都線と京都市地下鉄の両路線が交わる駅に「竹田駅」と云う駅がある。
今回はこの駅で下車し、南西の方向に広がる鳥羽離宮の旧跡を訪ねてみることにした。
今回はこの駅で下車し、南西の方向に広がる鳥羽離宮の旧跡を訪ねてみることにした。
竹田駅から300m弱の所に、安楽寿院と云う寺院がある。
平安時代の終り頃、鳥羽には離宮が営まれ、その離宮にて歴代上皇たちが院政を執り行ったことは良く知られている。
この離宮の南側に池が広がり、栄華を誇った貴族たちは連日のようにこの離宮にて、舟遊びや歌合わせなどに興じたと云われている。
この離宮の南側に池が広がり、栄華を誇った貴族たちは連日のようにこの離宮にて、舟遊びや歌合わせなどに興じたと云われている。
この鳥羽離宮の東殿に極楽浄土を希求する御堂が建てられたのが、この安楽寿院であり、阿弥陀三尊を本尊とする寺院であった。
寺院の前には、当時の鳥羽離宮の姿を描いた図が置かれているが、今の時代からは決してうかがい知ることができない風景である。
安楽寿院の南側に、近衛天皇陵がある。
安楽寿院南陵と云われ、陵には多宝塔が建てられている。
安楽寿院南陵と云われ、陵には多宝塔が建てられている。
その鳥羽天皇の陵が、安楽寿院の西側にある。
更に西へ進むと、現在は高架の高速道路が通っている油小路の直ぐ西に白河天皇陵がある。
天皇家の陵はこれくらいにして、更に西南方向へと向かう。
そこには式内社の城南宮が鎮座している。
城南宮は、都の南にあることから、平安京や御所の裏鬼門を守る神として崇敬された神社である。
裏鬼門とのことから貴族の方違の宿所となり、方除けや厄除けの神としても信仰されるようになり、熊野詣での出発場所となったことでも知られている。
尚、城南宮は、元々この地にあった式内社「真幡寸(まはたき)神社」に、神功皇后の三韓征伐の際に船上に立てた旗に神功皇后・八千戈神(大国主神)の神霊を添えて奉斎したことが創建であると云われている。
また、江戸時代の終りで大政奉還が行われた後に、幕府軍と薩長の新政府軍との戊辰戦争が繰り広げられるが、この城南宮は最初の激戦地になったことでも知られているところである。
上に掲げた俯瞰図を見ると鳥羽離宮は、真幡寸神社を城南宮として新たに創建し、それを中心として造営された離宮であることが分かる。
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城南宮の西側は国道1号線である。
その1号線に面して大鳥居が設けられている。
その1号線に面して大鳥居が設けられている。
鳥居の前の国道を挟んで、昔からの店がある。
その店は「おせきもち本店」と云う。
その店は「おせきもち本店」と云う。
早速、おせき餅を買い求めた。
おせき餅は、白餅と蓬餅に丹波大納言小豆の餡を重ねたものである。
持ち帰り頂いてみた。
柔らかい餅の上の餡は、甘くもなくほど良い味付けである。
中々このような餡には巡り合わない。
柔らかい餅の上の餡は、甘くもなくほど良い味付けである。
中々このような餡には巡り合わない。
この店の歴史は、箱に入っていた店のパンフレットによると以下である。
『江戸時代、この地に「せき女」と申す娘が居て、その大道(鳥羽街道)をのぼって来た旅人に茶屋を設け、餅を編笠の裏にならべて、道行く人に食べさせていました。
大変、心の美しい「せき女」は真心をこめて餅を造り、旅人を慰め、いたわったため大変評判になりました。それで「おせき餅」と名をとどめ、その後も永くそこに名物餅が商われつづけてきました。
大変、心の美しい「せき女」は真心をこめて餅を造り、旅人を慰め、いたわったため大変評判になりました。それで「おせき餅」と名をとどめ、その後も永くそこに名物餅が商われつづけてきました。
しかし慶応四年、(一八六八)正月、日本の新生は明治維新の砲声とともにこの地にも轟き、その鳥羽、伏見の戦で、この辺り一帯は戦場のちまたと変わりはて、民家が次々とやきはらわれました。
昭和七年この京阪国道の敷設とともに、この店もここに移り、昔に変わらぬ名物餅として、通りがかりのお客様や又城南宮参拝の方々等のおみやげとしても厚き御引立にあづかっております。 』
「名物に美味いものなし」とは良く云われるが、この餅は「名物にも美味いものあり」である。
〔続く〕