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 大阪地下鉄千日前線の新深江駅の東方向で、近鉄奈良線の布施駅の北方向と交差する辺りに「高井田」というバス停がある。
丁度、大阪市と東大阪市の境界付近である。
この場所は、大阪では数少ない地元ラーメン「高井田ラーメン」の発祥地である。
 この辺りには何度も来ているが、今回は上手い具合に昼となったので、高井田ラーメンを味わって見ることにした。
 因みに鉄道には高井田駅という駅が2つある。
大阪地下鉄の中央線の「高井田」と、JRおおさか東線の「高井田中央」である。
この2駅は隣接していて乗換駅でもあるが、バス停の「高井田」からはずっと北の中央大通りにある。
鉄道駅は高井田地区の北限、バス停は高井田地区の南限となっているので、少しややこしい。
 そのバス停の前に、高井田ラーメンの発祥店である「KY軒」とその次に開店した「中華そば SY」が少し離れて並んでいる。
そして、どちらも営業中であった。
 こうなれば発祥店が優先である。
 暖簾を潜り、引き戸を開けて入ってみた。
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店内はカウンターのみで10席ぐらいの小さな店である。
入った時は、半分弱の客数であった。

 調理場はカウンターの後ろの壁の裏にある。
恐らくは民家を改造してこのようになっているのであろう。
その壁の後ろから出てきた大将に、「中華そば」お願いします、と注文したのであった。高井田ラーメンと云えば鶏ガラと昆布の出汁に醤油で濃く味付けしたスープで、麺は太いと予備知識はある。
太い麺だから茹でるのに普通以上の時間は掛かるのであろう。
10分位して中華そばが運ばれてきた。

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 スープは濃い醤油色である。比較的透き通っている。
具はコマ切れのチャーシュー少々、メンマ、そしてきざみネギである。
麺を探ってみると、かなり太いうどん位の麺が現れた。
 さて、頂いてみよう。
先ずはスープである。
かなり塩辛い。
今までに最高に辛いと思ったスープは富山で食べた富山ブラックであるが、それに負けないくらいに塩辛い。
富山ではメンマも塩漬けのように辛かったが、こちらのメンマは甘味さえ感じる。
少しはホッとしたのであった。
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 チャーシューも柔らかく、美味しく食べられる。
 麺は太さのせいか、スープが麺の中まで浸透するのには時間がかかる。
ラーメンによっては食べている途中に麺の歯応えが変わって来るのもあるが、この麺は最初から最後までしっかりしている。
しかし、ゴツゴツと感じるのは少しの難点である。
 やはり問題はスープの辛さである。
残念ながら最後まで飲み干すことができなかった。
 高井田ラーメンの歴史は定かではないが、戦後も4~5年経ったころ、かつての大阪電気軌道(現近鉄)布施駅の北側で濃い醤油味の極太麺の中華そばを食べさせる屋台風の店があったと云われる。
その後この店は周辺の整備のあおりを受けて立ち退いたまま、不明であるとのことである。
 戦後7~8年経った頃、現在の高井田バス停付近でKY軒が屋台を構えたのが引き続きの歴史である。
その後、屋台ではなく店舗を構えたという。
そして一年ぐらい経って、中華そばSYが開店した。
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 これらのラーメンは美味いという評判になり、次々に布施駅付近で中華そば屋が開店し、この一種独特のラーメンが高井田ラーメンと呼ばれるようになったのである。
現在もこの付近や東大阪市内に10数軒の高井田ラーメンの店があり、好みに応じて食べることができるのは、嬉しいことである。高井田、高井田と云ってきたが、このKY軒もSYも現在の住所地は大阪市深江に組み入れられている。
このKY軒の大阪寄りの道は深江稲荷の参道となっている。
深江稲荷は創建2000年前の古い神社であるが、有名なのは江戸時代のことである。

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大坂からのお伊勢参りが大流行した。
この付近に伊勢本街道が通っていて、大坂を後にした伊勢神宮への旅人は、先ずはこの地で菅笠を買い求めてそれを被り、伊勢へと生駒山を越えて行ったのである。

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 なぜ深江が菅笠の産地となったのであろうか?
元々この辺りには良質の菅草が自生していた。
大和の笠縫(かさぬい)氏と云う一族が菅草を求めてこの地に住みつき、菅笠を作り始めたのが始まと云われている。明治以降はお伊勢参りも歩き旅では無くなり菅笠も必要無くなったが、菅細工として海外に輸出されたりもし、現在もその菅細工は連綿と引き継がれているとのことである。

 さらに、神社の北側に菅田が復活されて、その歴史が保存されている。
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