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東海道新幹線でいつも通過ばかりである静岡県の掛川駅で途中下車してみた。
目的は昼食と付近の探索である。
目的は昼食と付近の探索である。
掛川駅は静岡駅と浜松駅の間にある駅で、牧之原台地に近く、このあたり一帯は静岡茶の一大産地である。
この牧の原台地の茶葉は深蒸し茶と呼ばれ、特産品となっている。
この牧の原台地の茶葉は深蒸し茶と呼ばれ、特産品となっている。
駅構内で食事処を探していると、うまい具合に深蒸し茶のそばを食べさせてくれる店があった。
というか、和食の食事処はこの店をおいて他になく、その唯一の店にて茶そばが食べられるということである。
というか、和食の食事処はこの店をおいて他になく、その唯一の店にて茶そばが食べられるということである。
店の名前は「ふじの坊 KZ」と云う。
「少し時間がかかりますよ」
と言われたが、
「乗り物の時刻が迫っているので、特急でお願いします」
とお願いし、しばらく待つことになった。
と言われたが、
「乗り物の時刻が迫っているので、特急でお願いします」
とお願いし、しばらく待つことになった。
その効果があってか、意外と早くそばが出てきた。
後で分かったのであるが、深蒸しとは茶葉にかかわる蒸し方で、そばの蒸し方ではないのである。
この牧の原台地辺りの茶葉は、日当たりが良いため茶葉は通常よりも肉厚となり、蒸し時間を少し長くして茶葉の細胞がほぐれ易くなるようにしているのが深蒸し茶とのことである。余談であるが、あるTV番組によると、掛川市民のがん死亡率は日本一低いとされている。
その要因として深蒸し茶の愛飲が挙げられているとのことである。
この牧の原台地辺りの茶葉は、日当たりが良いため茶葉は通常よりも肉厚となり、蒸し時間を少し長くして茶葉の細胞がほぐれ易くなるようにしているのが深蒸し茶とのことである。余談であるが、あるTV番組によると、掛川市民のがん死亡率は日本一低いとされている。
その要因として深蒸し茶の愛飲が挙げられているとのことである。
出された蒸篭のそばの色は緑が濃い。
これが深蒸し茶そばの特徴なのであろう。
これが深蒸し茶そばの特徴なのであろう。
2
さて頂いてみよう。
そば麺はしっかりとしている。
どちらかというとコシがあるというのか、少し堅さが伺われる。
味はというと、茶の香りがしっかりと付いている。
そばつゆの出汁の味は標準である。
付け合わせに小鉢もついている。
付け合わせに小鉢もついている。
蒸篭2枚であるが、大きくは無いので、瞬く間に平らげてしまったのであった。
この時期は寒いので、盛りそばは食べないのであるが、茶そばには目がないので、ついつい頂いてしまったのであった。
この時期は寒いので、盛りそばは食べないのであるが、茶そばには目がないので、ついつい頂いてしまったのであった。
さて近隣の探索である。
掛川は宿場町であるとともに城下町である。
掛川城のある公園までは歩いて10分ぐらいで行けるので、早速向かってみた。
掛川は宿場町であるとともに城下町である。
掛川城のある公園までは歩いて10分ぐらいで行けるので、早速向かってみた。
先ずは再建された大手門である。
掛川城は、最初は今川氏の家臣である朝比奈氏が築城したものである。
当時は、今川氏、武田氏そして徳川氏の抗争が激しく、最終的には徳川家康の領有するところとなったが、家康の関東移封に伴い豊臣家臣の山内一豊が城主となったものである。
そして一豊は大改修を加え、城を整備した。
当時は、今川氏、武田氏そして徳川氏の抗争が激しく、最終的には徳川家康の領有するところとなったが、家康の関東移封に伴い豊臣家臣の山内一豊が城主となったものである。
そして一豊は大改修を加え、城を整備した。
山内一豊は、関ヶ原の戦いのとき、豊臣大名の中で真っ先に徳川方に与し、城も家康に明け渡すとの強い忠誠心を表明し、関ヶ原の勝利の後、土佐国の大名となったという逸話はよく知られているところである。
その後掛川城には沢山の譜代大名が入れ替わったが、最終的には江戸城を築城した太田道灌の一族の太田氏が入り、幕末まで続いた。
しかし、幕末近くに安政東海地震が発生し、掛川城の建物は悉く潰れた。
天守が再建されたのは今から20年前、すべて木造で復元されたのは日本初とのことである。
そして天守の南には移築された太鼓楼が少し古めかしい姿で掛川の街を眺めている。
また城内はよく整備されていて、梅の花も綺麗に見ることができた掛川城公園であった。